ヴィシー政権の成立
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「フランス第三共和政」の記事における「ヴィシー政権の成立」の解説
「ヴィシー政権」、「ミリス」、および「コラボラシオン」も参照 第二次世界大戦中の1940年春、ナチス・ドイツの侵攻でフランス軍が敗北を続ける中、84歳のペタンはレノー内閣の副首相に任命された。1940年6月13日に行われたフランス重大国務会議では、ペタンを始めとした閣僚はウェイガン陸軍総司令官とともに対独講和を主張、主戦派はレノー一人となった。しかし6月14日にパリが無血開城すると、6月16日にレノー内閣が総辞職。後継首相はペタンに決定した。 6月21日、ペタン率いるフランス政府はドイツに休戦を申し込み、翌6月22日に休戦は成立した。独仏休戦協定によってパリを含むフランス北部と東部はドイツの占領下に置かれ、フランス政府は南フランスのヴィシーに移った。7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で『憲法的法律』を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった。以降ペタンはフランス国主席(Chef de l'État français)となった。これ以降の政権はヴィシー政権と呼ばれる。7月11日、ペタンは「憲法行為 (fr:acte constitutionnel) 2号」によって第三共和政憲法の破棄を宣言した。こうして、フランス第三共和政は70年の歴史に事実上幕を閉じることとなった。 ヴィシー政府は対独協力政府として1944年まで存続したが、連合国の優勢が明白になると、ヴィシー政府内では第三共和政の復活を模索する動きも現れた。1944年8月、ピエール・ラヴァル首相はパリに第三共和政議会を復活させようとしたが失敗し、ヴィシー政権はドイツ軍の敗退とともに崩壊することになる。
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