ヴィシー政権と占領地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「ヴィシー政権と占領地域」の解説
詳細は「ヴィシー政権」および「コラボラシオン」を参照 ヴィシー政権では、ペタンをフランス国首席とし、実際は彼がすでに老齢でったことから、多くの政治は副首相であったピエール・ラヴァルが担当した。国内ではそれまでの共和国の標語であった「自由、平等、友愛」の語句は禁止され、「労働、家族、祖国」がそれに代わるものとして標語となった。こうした初期におけるペタンのフランス革命の人権や反教権主義、共和国の原理などを否定は「国民革命」と称され、第三共和政以降、国内で封じ込められていた伝統主義が体現したもので、ファシズムやポピュリズムなどとは異なる様相を持っていた。またドイツ支配地域では、三色旗に代わって鉤十字が掲げられ、フランス時間に1時間足したドイツ時間が適用されるなどの、ナチス化が推められた。 休戦条約に代表される一連の苛烈な統治の一方で、ヴィシー政権の主権国家は温存され、休戦監視軍という名目で10万人ほどの陸海軍を保有するなどが認められた。そうした経緯から、イギリスを除く多くの国家はペタン政権を承認した。また休戦条約前まで保有していたインドシナを除く植民地の多くも、ヴィシー政権を承認した。ヴィシー政権には極右団体や急進保守派、平和主義者、左派の反議会主義者、人民戦線を憎む実業家や戦前に改革案を受け入れられなかったテクノクラートなど、さまざまな第三共和政に不満を持つ人々が参加した。しかし一方で右翼団体のアクシオン・フランセーズや左翼団体のフランス共産党などは参加せず、むしろレジスタンスとして、自由フランスとの連携を作るなどの抵抗運動を行なった。 戦争が長期化すると、ヒトラーからのコラボラシオンが苛烈化し、1942年10月3日にはユダヤ人迫害法などのファシズム的な政策が始まり、世論は次第に抵抗の色を帯び始めた。ドイツ軍占領地域では、特に第一次世界大戦の敗戦によって奪われたアルザス=ロレーヌの再統一に伴い、この地域においては他の都市でのナチス化以上の徹底が見られ、フランス語の使用禁止や同地に住む多くのフランス人や黒人、ユダヤ人などの追放、ナッツヴァイラーにはガス室を備えた収容所が建てられ、ドイツで17歳から25歳までの男性に義務付けられていた帝国労働奉仕隊らが入植した。 1940年12月、対独協力に積極的であったラヴァルは、協力に慎重であったペタンと折り合いが悪く、失脚する。翌1941年2月にはダルランが副首相に就任し、ドイツに譲歩を重ねながら、5月のヒトラーとの会見ではアフリカ植民地をドイツ軍の利用に供する協定に同意し、ダルランは枢軸側として参戦することを提案するも、それを危険視したペタンは1942年4月に彼を解任させ、ラヴァルを復帰させるなど、人事の混乱があった。またフランス領インドシナは仏印進駐によって日本軍の影響下に置かれることになった。連合軍が北アフリカに上陸した1942年11月、国際情勢の変化から、ヴィシーとの国交を絶つ国家が相次ぎ、影響力の低下などもあって、ドイツ軍はヴィシー地域を占領し、フランス全土を管理するようになる。戦況がドイツ不利になると、親独派で、ドイツとの関係が深かったラヴァルでさえ無視されることが多くなり、1944年1月にはより過激な対独協力者の入閣を求められ、フィリップ・アンリオやジョセフ・ダルナン、マルセル・デアなどが起用された。
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