ヴィシー政権下での生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 00:01 UTC 版)
「ロレーヌ 37L」の記事における「ヴィシー政権下での生産」の解説
1939年および1940年中に、本車は主としてリュネヴィルに所在するロレーヌ工場で量産された。1939年の初期、ドイツの爆撃に対してより抵抗力がある南方の場所、バニェール=ド=ビゴールに工場の建設が決定された。この「バニェールの製作所」は独仏双方に結ばれた休戦の時までに1輌の車体さえも生産しなかった。しかしこの工場は、ベジエに所在する牽引車製作会社フーガ工場と同様、ヴィシー政権が統治するドイツに占領されていない地域に位置していた。1940年6月以後、総計約150輌の限定的な生産が継続されたが、軍用型としては公式に生産されることはなかった。 これらの車輌のいくつかは短縮された車体を持ち、緩衝機構は両側面に2組のボギーのみで構成されている。ロレーヌ牽引車は表向き、林業と建設作業での使用に適合するようになっていた。実際のところこれらの車輌は簡単に作り直すことができ、内密に装甲戦闘車輌の製造を成立させていた。AMX工場では秘密裏にこれら車輌のための装甲車体を生産し、備蓄していた。この形式の車輌は「Tracteur Lorraine 37 L 44」と呼ばれた。 南部フランスはドイツにより1942年11月に占領され、これら車体の多数が隠匿された。1944年春、フランスのレジスタンス達はロンドンからの指令によりバニェールの工場を攻撃し、連合軍はこうした車輌がドイツのために製造されていたと推定した。1944年夏、レジスタンスに対し事情にかかわる通知があり、さらなる攻撃は停止された。この時の約束は、レジスタンスの使用のために既存の車輌が武装されることであった。1945年1月、解放の後、これらの中から最初に20輌が配備された。戦争中、一カ月に約20輌の割合で工場は車輌の改修を続けた。しばしばこの改修は装甲化された上部構造物を装着することで行われ、武装は軽機関銃または重機関銃であり、車体の前面または後方に取り付けられた。
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