ヴィシー政権軍からフランス民兵団へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)
「アンリ・フネ」の記事における「ヴィシー政権軍からフランス民兵団へ」の解説
1940年6月のフランス敗戦(休戦)後、フネは敗北の責任がある腐敗した政治家と耄碌した将軍らに対して屈辱と怒りの感情を抱き、イギリスに渡る(シャルル・ド・ゴールの「自由フランス」に参加する)ことを一時考えた。しかし、先の戦争(1914年〜1918年の大戦)の「ヴェルダンの英雄」ペタン元帥 (le maréchal Pétain, « vainqueur de Verdun ») の言葉に心を動かされたフネはペタン元帥を信じ、ヴィシー政権の方を選んだ。 ヴィシー政権軍(Armée d'armistice:ヴィシー政権下のフランス軍)に改めて入隊した後、フネはアフリカ(フランス領西アフリカ)のモーリタニアに配属され、セネガル狙撃兵(Tirailleurs sénégalais:1958年以前のフランス陸軍植民地歩兵の一種、セネガル兵)1個小隊の指揮を委ねられた。この時、フネは純潔さと冒険心を渇望していたが、ドイツ陸軍の指揮下で東部戦線に従軍中の「反共フランス義勇軍団」(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)や、ヴィシー政権の公式な義勇兵組織「三色旗軍団」(La Légion Tricolore) へ入隊する気は無かった(フネ自身によると、これらの組織は古いフランス軍の欠陥をすべて含んでいたからという)。 1942年秋、フネがフランス本土に戻ってから間もなく連合軍が北アフリカに上陸し(トーチ作戦)、フランス占領ドイツ軍がヴィシー政権の支配地域である「自由地区」(南フランス)に侵入した(アントン作戦)。さらにドイツ軍は1942年11月27日にヴィシー政権軍を解散させたため、11月29日、フネは除隊して故郷のアン県に帰った。 帰郷後のある日、フネは父親からヴィシー政権派民兵組織「戦士団保安隊」(Service d'Ordre Légionnaire (SOL)) の地元の支部長である元フランス軍少佐が会議を催し、そこでアンリ(フネ)と会うことを望んでいると伝えられた。フネは会議には参加しなかったものの、別の場でこの退役少佐と会見した。退役少佐はフネに対し次のように述べた。 フランスは君のような若い将校を必要としている。今のところフランス軍は影も形もないが、我々はいつの日か現れる新たなフランス軍にふさわしい者を集めているところだ。私とともに働きたいかね? これと同意見であったフネは戦士団保安隊へ入隊し、やがて戦士団保安隊が1943年1月30日に「フランス民兵団」 (Milice Française) と改称されると、フネはフランス民兵団アン県部隊長 (chef départemental de l'Ain) となった。 1943年初旬、スターリングラードでドイツ軍がソビエト赤軍に敗北した(スターリングラード攻防戦)後、フネは自分がフランス国内で何の目的も無しに生活していることに気付いた。この頃、フネは「世界の敵」と戦い、ヨーロッパをソビエト連邦の侵攻から守ることが使命であると考えるようになっていた。当時の心境をフネは次のように述懐している。 1942年末から、ヨーロッパの最大の関心事はスターリングラードであった。ヨーロッパはその1つの地盤だけでこの父なる世界を保っていた。もし、アメリカの資本主義やソビエトのボルシェヴィズム(共産主義)がヨーロッパに波及したとすれば、ヨーロッパとヨーロッパの国々のアイデンティティ(独自性)が危険にさらされてしまう。 1943年7月22日、当時のフランス国(ヴィシー政権)首相ピエール・ラヴァル (Pierre Laval) は、「反ボルシェヴィズム(反共)組織への志願・勤務に関する法律」(« LOI n°428 du 22 juillet 1943 relative aux engagements volontaires dans les formations antibolchevistes ») を国会で可決させた。ドイツ占領下フランス政府が制定・公布したこの法律によって、フランス国民(フランス人)のうち、フランス以外の場所で共産主義(ソビエト連邦)の軍勢と戦うことを志願した者はドイツ国の武装親衛隊 (Waffen-SS) へ公式に入隊できるようになった。
※この「ヴィシー政権軍からフランス民兵団へ」の解説は、「アンリ・フネ」の解説の一部です。
「ヴィシー政権軍からフランス民兵団へ」を含む「アンリ・フネ」の記事については、「アンリ・フネ」の概要を参照ください。
- ヴィシー政権軍からフランス民兵団へのページへのリンク