菊水七号作戦
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「菊水七号作戦」・「第八次航空総攻撃」(5月24日 - 27日) 1945年5月22日、戦線崩壊の危機に直面していた第32軍は、このまま首里陣地で玉砕するか、南部に撤退しさらなる持久戦を続けるか、今後の作戦方針を協議する会議を軍参謀と師団・旅団参謀を集めて開催したが、会議の結果、南部撤退案が軍の方針となり25日から移動開始と決められた。同日に「菊水七号作戦」と「第八次航空総攻撃」が開始される予定であったが、天候不順により2日延期され5月24日の発令となった。この頃になると海軍でも実用機が欠乏し、練習機「白菊」を特攻機として投入している。宇垣は白菊の特攻初出撃を直々に見送っているが、燃料を満載し爆弾を搭載した白菊の速度は遅く、ピケットラインに突入した白菊から、アメリカ軍駆逐艦が85~90ノット(166㎞/h)で追いかけられているといったアメリカ軍の無線を聞いた宇垣は「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり・・・数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている。この用兵が功を奏し、白菊はこの後、戦果を挙げていくこととなった。 詳細は「白菊 (航空機)#白菊特攻隊」を参照 特攻を支援するため、5月24日には義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺奇襲作戦(義号作戦)が実施された。義烈空挺隊はサイパン島のB-29破壊に投入される計画で、隊長の奥山道郎大尉以下猛訓練を積んでいたが、その後沖縄に投入するため1945年5月2日に第6航空軍の指揮下に編入されていた。12機の九七式重爆撃機が敵飛行場に強行着陸し、搭乗している120名の空挺隊員と重爆の搭乗員32名が軽機関銃、短機関銃、小銃、手榴弾、九九式破甲爆雷などの装備により地上で敵機を撃破し、飛行場を一時使用不能とし、特攻による艦船攻撃を援護するという作戦だった 詳細は「義烈空挺隊#出撃」を参照 義烈空挺隊突入の露払いとして、陸海軍の爆撃機によるアメリカ軍飛行場への夜間攻撃がおこなわれた。爆撃機は時限信管式の爆弾を使用している。5月24日中の日本軍による飛行場空襲は6回を数えていたが、7回目となる5月24日の22時に、5機の九七式重爆撃機が読谷飛行場に低空飛行で突入してきた。アメリカ軍の激しい対空砲火に4機が撃墜されたが、残り1機が滑走路上に胴体着陸に成功した。機体の中から10名~11名の完全武装の空挺隊員が飛び出してくると、滑走路上の航空機に手榴弾や爆雷を投げつけ、アメリカ軍守備隊と激しい銃撃戦を行ない、読谷飛行場を地獄さながらの混乱に追い込んだ。空挺部隊は全員戦死したが、アメリカ軍も20名が死傷し、33機の航空機が完全撃破か損傷を受け、ドラム缶600本70,000ガロンの航空燃料が焼失した。日本軍は伊江島の飛行場も爆撃したが、ここでも60名のアメリカ兵が死傷している。 5月23日から27日にかけて海軍は作戦機387機、うち特攻機107機を投入、陸軍は作戦機174機、うち特攻機61機を投入した。5月24日の義烈空挺隊と飛行場への夜間攻撃はアメリカ軍飛行場に少なくない損害を与えたが、海軍はこれまで沖縄の飛行場を攻撃してきた夜間戦闘機隊芙蓉部隊が、慰労会や酒宴を開催しており攻撃に参加していないなど、初めから陸海軍連携の足並みは揃ってなかった。また、5月24日から天候が崩れ、出撃しても帰還する特攻機が相次いで折角の義烈空挺隊のあげた成果を活かすことができなかった。第6航空軍司令官の菅原は作戦について、「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と評している。 出撃した特攻機の中には、桜花部隊としては第1回目の野中隊に次ぐ規模となった第9桜花神雷部隊12機も含まれていた。日本海軍の期待も大きく、豊田副武海軍総司令長官が自ら別杯の酒を注ぎ出撃を見送り、その様子は日本ニュースでも放映されたが、スコールに見舞われ、多くの機が桜花を射出することもなく引き返している。他の特攻機の多くも桜花同様に天候不良により引き返しており、沖縄に突入した機は限られた数となったが、輸送駆逐艦ベイツと中型揚陸艦LSM-135を撃沈、掃海駆逐艦バトラー、輸送駆逐艦ローパー・フォレスト、駆潜艇PC-1603、掃海艦スペクタクルに再起不能となる損傷を与えた。
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