白菊特攻隊とは? わかりやすく解説

白菊特攻隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:33 UTC 版)

白菊 (航空機)」の記事における「白菊特攻隊」の解説

1945年昭和20年1月8日大本営全軍特攻決定すると、全国練習航空隊通常の搭乗員訓練止め特攻隊編成するように命令下された練習機により特攻は、白菊装備する高知空(菊水白菊隊)、徳島空(徳島白菊隊)、大井空(八洲隊)、鈴鹿空(若菊隊)で実施される事となり、まずは高知空と徳島空で特攻志願者募集開始された。当初設計では機体大き白菊機内の床に板を置いて、そこに250kg爆弾2発をワイヤー縛って固定するという乱暴なものであったが、最終的には、250kg爆弾両翼に1発ずつ懸架し、操縦席計器板に信管安全装置解除するレバー装着するよう改造されエンジンカバーの上照準器装着された。航続距離延伸するために胴体内の後部席に零戦用の増槽取り付け通常480リットルである搭載燃料700リットル弱まで増加させた。これらの改造により、通常時より大幅に重量増加し離陸すら困難となったため、訓練離陸中心に行われた。またこの状態での最高速度時速180程度低速になり、この白菊特攻出撃させられることに隊員らに戸惑いがあったという。 離陸慣れてくると、模擬爆弾搭載して訓練となったが、起床夕刻午後5時として暗くなるのを待って訓練開始するといった昼夜逆転日課による訓練連夜行った日中にも、黒眼鏡をかけて、視界夜間同じにして訓練した離着陸になれると、模擬爆弾搭載して飛行訓練となったが、1945年5月初めのころには夜間飛行を満足にできない搭乗員多かったのに、1か月もしない5月22日のころには殆どの搭乗員夜間洋上進行可能な水準となり、海面すれすれの高度15mで編隊飛行することもできるようになっていた。日本海軍は、夜間飛行支障なくこなす操縦技術有する搭乗員をA級と認定しており、同じ夜間出撃行っていた精鋭部隊芙蓉部隊が、200時間もの飛行時間要して到達できた技能水準と同水準であったが、芙蓉部隊とは異なり白菊はその低速から他の航空機による誘導護衛不可能であり、最初から沖縄まで単独での夜間洋上進行求められ、より難易度高かった白菊特攻沖縄戦投入されることとなり、菊水七号作戦中の1945年昭和20年5月24日夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊14機が串良の航空基地から出撃した。出撃に際して搭乗員には「白菊爆装こそ大きいが速力は遅い。戦艦巡洋艦などの大型艦狙っても無理であるから、なるべくは輸送艦狙いこれを爆砕せよ」と命令されている。白菊速度著しく遅いため、出撃の際は真っ先離陸し次に15分おいて戦闘機離陸、さらにその後艦上爆撃機艦上攻撃機離陸するように決めていた。そうすることにより、戦闘機途中で白菊追い越して戦闘機交戦し白菊はその隙をついて敵艦突入する計画であった。この日出撃した白菊隊は、故障不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部敵艦隊に到達している。沖縄戦特攻指揮した第5航空艦隊司令部アメリカ軍無電傍受しており、「時速160170日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍駆逐艦無電聞いた一人幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊追いかけているんだろう。」と笑う有様で、第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も「夜間兎も角昼間戦闘機会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳し評価下し夜間黎明限定して投入することとしている。 白菊まで特攻投入したことは、第5航空艦隊内でも戦争成り行き絶望感抱かせることとなった鹿屋基地第五航空艦隊司令部将校として配属され野原一夫少尉は、先に着任していた学徒出陣予備少尉から「なんだって今頃鹿屋にきたんです。沖縄戦争は、ジ・エンドですよ」「白菊まで出ていくようになっちゃあ、沖縄航空決戦もいよいよおしまいだな。五航艦にはもう、特攻使える実用機はほとんど残っていないんです」と嘆かれたのち、白菊には軽量化のため無線機すら積まれておらず、実用機による特攻機が行最後突入電を打電することすらできないこと聞かされあまりにもみじめじゃないか」と白菊搭乗員への同情絶望感覚えている。 特攻戦力欠乏していた第5航空艦隊は、海軍記念日5月27日深夜にも白菊鹿屋と串良か夜間出撃させた。この日、野原通信室アメリカ軍無電傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦警備艇が「奇妙な物体いくつか海面上に見える」「海面すれすれの、30mぐらいの低空だが、それが何であるかよくわからない」「爆音聞こえてきた。やはり飛行機かもしれないSpeed very slow, very very slow...」「太った雌鶏が空を飛んでいる。いや、あれはボギー敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる。先日飛んできた。ボギー間違いない」という無電発したのを聞いている。白菊隊は、駆逐艦ドレクスラー突入したドレクスラー乗組員からは、接近してくる白菊時代遅れ練習機には見えず操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練操縦士のように見えたという。白菊のうち1機は、ドレクスラーの艦後部突入してボイラー室機械室破壊し航行不能に陥らせた。このときドレクスラー発した思われる敵機突入してきた。甲板上大火災...至急救援たのむ」という無電傍受した通信室野原ら第5航空艦隊将校たちは「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している。この後ドレクスラーにはもう1機の白菊突入し、たちまち転覆して沈没したあまりに沈没早かったため、乗組員158名が死亡艦長を含む52名が負傷したその後白菊は、沖縄戦終結後1945年昭和20年6月25日まで、のべ115機が出撃56機が未帰還となったが、1945年6月21日輸送駆逐艦高速輸送艦バリーLSM-1級中型揚陸艦のLSM-59の合計3隻を撃沈し1945年昭和20年5月29日にシュブリック(駆逐艦) (英語版)、1945年昭和20年6月21日中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ、その後両艦は修理断念されて、スクラップとなったその他にも数隻を損傷させるなど、宇垣ら第5航空艦隊司令部低い評価覆す戦果挙げている。通常戦力とはならない練習機が、それも夜間攻撃戦果挙げている事に対して敵のアメリカ軍警戒強めており、夜間の特攻機アメリカ軍発射した対空砲火曳光弾辿って、艦の中央部にある煙突などの重要箇所突っ込んでくるため、夜間の特攻機対する各艦個別発砲禁じたほどであった。しかし、白菊軽量化のために編隊機にしか無線搭載されておらず、日本軍白菊特攻戦果をほとんど把握できていなかった。 それでも、海軍稼働全て特攻出撃させるつもりで、本土決戦でも大量白菊特攻出撃させる計画であったが、終戦により実現することはなかった。白菊特攻徳島空で56名、高知空で52名の合計108名が戦死した責任重く感じていた高知司令加藤秀大佐は、副官らが自決しないよう軍刀拳銃取り上げたにも関わらず井戸飛び込んで自決してしまった。徳島空でも3名の予備士官自決したなかでも中原一雄海軍中尉長島良次海軍少尉は、徳島空の白菊特攻隊員に志願するも、出撃することなく終戦終えたが、敗戦に強い衝撃責任感じており、部下復員見届けたのち、8月23日に、海軍正装着替えて祖国再興願いながら基地内の防空壕の中で互いを目がけて機銃撃ち合って自決している。 なお、TVドラマ水戸黄門」の第14部から第21部まで9年徳川光圀役を務めた俳優西村晃は、徳島白菊隊の特攻隊員である。しかし、出撃不良基地引き返し終戦見届けた後に、8月23日迎えたまた、この特攻隊での同僚には裏千家15家元千玄室がおり、西村親友である。

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