戦争と自殺
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中国 中国では、紀元前1100年ごろ殷王朝最後の帝である帝辛(紂王)が周の武王に敗れ、焼身自殺したと伝えられている。古代中国の軍人においては「自刎(ミズカラクビハネル)」と称される、刀剣などの刃物をもって頸動脈を切断する自殺手法があり、伍子胥、項羽、白起など名だたる軍人が用いており、現代でも中国人の自殺に用いられることがある。 エジプト エジプトプトレマイオス朝最後の女王であるクレオパトラ7世はアクティウムの海戦に敗北した際に、オクタウィアヌスに屈することを拒み、コブラに自分の体を咬(か)ませて自殺したと伝えられている。 インド 略奪や奴隷化・レイプを防ぐために、女性の集団が焼身自殺するジョウハルという風習があるほか、勝ち目が無くなった敗残兵が死兵となり、sakaと呼ばれる自殺突撃する風習もある。 インドネシア インドネシアではププタンとよばれる集団自決の風習があり、19世紀にオランダがバリ島に侵攻した際に、いくつかの王国で実施された。 日本 平安、鎌倉、戦国時代に至るまで、日本の武士には敵に討ち取られるよりは自害することをよしとする風潮があった。『平家物語』の登場人物には自殺で終わる者が多い。これらには、自らが討ち取られその武名が誰かによって落とされること、ことに格下の兵に功名の手柄とされることを恥としたからである。江戸時代中期の武士道の著書『葉隠』では「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文がある。 第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて軍国化した日本では、「生きて虜囚の辱めを受けず」の一文で有名な戦陣訓に象徴される、軍人は捕虜になることより潔い自決を名誉と考えられた。そのため、太平洋戦争では、前線の指揮官が無断撤退の責任を取るために自決を強いられることもあった。自決であれば、軍人軍属の場合は戦死扱いになり、不名誉でないとされた。名誉の自決をした軍人は新聞報道やラジオ放送、ニュース映画や大本営発表を通し市民の目や耳に入り、立派な最期を遂げた尊敬すべき偉人とされ賞賛された。また、陸海軍を問わず日本軍の航空部隊は、操縦者や機体が被弾し、帰還が不可能となった場合は「敵機・敵施設・敵地上軍・敵艦に突入し自爆」「背面宙返りで地上や海上に自爆」が常態であった。日本の戦線が後退する1943年以降は、撤退できないで孤立した部隊が自らの戦いを終わらせるため、しばしば「バンザイ突撃」と米兵が名付けたような決死的な肉弾攻撃を実行した。神風特別攻撃隊や対戦車肉弾攻撃のように作戦そのものが未帰還や自爆を前提としていたものもあり、これらを米軍は「自殺攻撃(Suicide Attack)」と名付けた。また、激戦地となった沖縄県や、満洲などの外地では、軍人のみならず多くの市民が集団自決に追い込まれた。 敗戦時や大戦最末期には、軍の上層部の人間から、この責任を取るため自決を選んだ人間が多く出た。他の敗戦国と比較し日本軍の自決者はあまりに多かったため、正確な集計はできていないが、日本戦友連盟や全国戦争犠牲者援護会などの関係団体が集計した結果は最低でも527人に上るという。最高位の自決者は陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将陸軍大臣であり、陸軍大臣就任前の陸軍航空総監部兼航空本部長のときから「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」「富士山を目標として来攻する敵機群の横っ腹に向かって自ら最後には突入する」と周囲に公言もしており、終戦が決定すると「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」との遺書を遺して、日本陸軍の罪を一身に背負って自決した。他にも多くの自決者がいたが、特に特攻関連の自決者が相次ぎ、神風特別攻撃隊の創設者大西瀧治郎中将は玉音放送の翌日の8月16日に「特攻隊の英霊に曰す」という遺書を遺して自決し、菊水作戦の最高指揮官であった第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将も、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」11機で沖縄近海のアメリカ海軍艦隊に突入を図って戦死した。他にも陸軍航空本部長寺本熊市中将が「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決、他にも航空総軍兵器本部の小林巌大佐、練習機『白菊』特攻隊指揮官、高知海軍航空隊司令加藤秀吉大佐など58名の将官級を含む航空隊関係者が自決がした。なかでも第4航空軍の参謀長として、フィリピンで特攻を指揮した隈部正美少将は、フィリピン戦後に更迭されて陸軍航空審査部総務部長という閑職にあったが、8月15日の夜に、母親、妻、19才と17才の2人の娘と最後の夕食を囲んだ後、家族5人で多摩川の川べりに赴き、隈部が自分の拳銃で全員を射殺した後、自分もその拳銃で自決した。特攻作戦への責任と、軍司令官富永恭次中将の補佐をできなかったことへの悔恨に基づく自決とされる。前海軍次官で終戦時軍事審議官だった井上成美大将は、あまりに多くの将官・高級士官が自殺をしたため「責任の地位にある者が自殺するのは、当人の自己の生涯は飾れ満足かも知れないが、これが自殺流行の風潮となり、誰も今後のことを顧みなくなるのは国家の大きな損失である」と憂いている。開戦時の総理大臣であった東條英機は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からA級戦犯容疑者として逮捕される直前に、拳銃を胸に撃ち込んで自殺をはかったが(東條英機自殺未遂事件)、知らせを受けたアメリカ軍の軍医が、医療用具と医療技官を満載した5台のものジープで駆けつけ救命治療を行い東條は九死に一生を得ている。 フランスのモーリス・パンゲは、日本の武士道などにみられる自死を名誉とする考えについて『自死の日本史』(筑摩書房)において論じた。評論家西部邁はこのパンゲの本について、「生きることには、何かしら裏切り、堕落、汚辱とかそういう本来拒否すべきものが濃厚に伴う。それが限界までくると、神にも仏にも頼らずに、自分の命を抹殺してしまうことで、汚いと自分の思っていることをしないですむ」「形而上学、この場合は宗教に頼らずに自分の生に伴う虚無感、価値あるものは何もありはしないという虚無感を吹き払うために、死んでみせることを選び、選んだことを一つの文化に仕立てたのは、世界広しといえども、世界史長しといえども、日本人だけである。そういう日本礼賛なのである」と説明した。 アメリカ アメリカでは、第二次世界大戦で、重巡洋艦インディアナポリスの艦長チャールズ・B・マクベイ3世が、日本の伊58潜水艦にインディアナポリスを撃沈された責任を追及され、自殺に追い込まれている。 また、第47代海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、第二次世界大戦の後に設立されたアメリカ空軍と、空母の運用をめぐって激化した対立により、神経が衰弱して辞職に追い込まれ、最終的に自殺している。 アフガニスタン紛争やイラク戦争を始め、海外の戦争に派兵されたアメリカ軍兵士の中には、自殺する者が出ている。アフガニスタンとイラクからの帰還兵だけでも自殺者は数千人にも上り、その数は戦闘中の死者数を上回るとの見方がある。 ドイツ アドルフ・ヒトラー暗殺の一つ、7月20日事件では、失敗したクーデター側は、ヘニング・フォン・トレスコウ少将やギュンター・フォン・クルーゲ元帥、ルートヴィヒ・ベック上級大将など、クーデターに加担した多くの者が自殺を遂げている。また、実際に関与したかは未だに不明だが、エルヴィン・ロンメル元帥は、関与が疑われた結果、「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫られ、自殺を選んでいる。 第二次世界大戦におけるドイツの降伏は、アドルフ・ヒトラーの自殺がきっかけとなっている。同時期に、ヴィルヘルム・ブルクドルフ、ハンス・クレープス、ヨーゼフ・ゲッベルスなどが自殺している。 ヴァルター・モーデルは連合軍に包囲された時、「ドイツの元帥は降伏しないものだ」と降伏を潔しとせず、自殺している。
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