戦争と解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 02:26 UTC 版)
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「戦争と解放」の解説
1861年に始まった南北戦争の結果はアメリカにおける動産としての奴隷制の終焉であった。戦争が勃発して間もなく、弁護士を職業とする北軍の将軍ベンジャミン・F・バトラーに信託された法的な操作により、北部の「所有」となった奴隷は「戦争の禁制品」と考えられ、それ故に、戦争前の南部の所有者の元に帰る必要はないとされた。すぐにその噂が広まり、多くの奴隷は「禁制品」と宣言されることを願って北部の領土内に逃亡した。「禁制品」の多くが北軍の労働者あるいは兵隊として参加し、黒人だけで構成されるアメリカ有色人種連隊も結成された。他のものはモンロー砦の近くのグランド・コントラバンド・キャンプのような避難民キャンプに行くか北部の都市に逃れた。バトラー将軍の解釈は連邦議会が1861年の没収法を通して補強された。この没収法は南軍に使われていた財産は、奴隷を含み、すべて北軍に没収されることを宣言した。 1863年1月1日のリンカーンによる奴隷解放宣言は北軍が南部に到着すればすぐに南部の奴隷に自由を約束する強力な動きであり、また、北軍にアフリカ系アメリカ人を徴兵することも認めた。しかし、奴隷解放宣言は南部と境界を接し、北軍に付いている奴隷所有州の奴隷を解放しなかった。連合国の諸州はリンカーンの権威を認めず、奴隷解放宣言は境界州に適用されなかったので、最初に解放された者は北部の領域に逃げ込んだ少数の奴隷だけであった。それでも奴隷制の廃止が公式の戦争目的とされ、北軍が南部から奪った領土には強制された。1860年の国勢調査によれば、この政策で400万人近い奴隷、すなわち全人口の12%以上の者を解放することであった。 新しく作られたアリゾナ準州では、1863年2月24日のアリゾナ基本法で奴隷制を廃止した。ケンタッキー州を除きテネシー州などの境界州は1865年早くまでに奴隷制を廃止した。北軍が南部に侵攻するにつれて解放宣言が執行され解放された奴隷がいた。残る南部の州に解放が実際に訪れたのは1865年春のアメリカ連合国軍の降伏の後であった。当時テキサス州には25万人以上の奴隷が残っていた。連合国崩壊の知らせが届いた所から奴隷が解放されていった。決定的な日は1865年6月19日であった。テキサス州やオクラホマ州などでは、その知らせがガルベストンの最後の奴隷まで届いた日として6月10日を記念して祝っている。 法的にはケンタッキー州 の奴隷約4万人が解放されたのが最後だった。これは1865年12月、アメリカ合衆国憲法修正第13条の批准が成立した時であった。
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