戦争と革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)
「日露戦争」および「ロシア第一革命」も参照 日露戦争は、ロシア国内にあってはきわめて不人気な戦争であった。1904年7月28日、保守派のプレーヴェ内相はサンクトペテルブルクで馬車もろともに爆殺された。こうしたなかウィッテは、増大する市民の不安に対処するため、政府の意思決定のプロセスに参加することを再び許された。激化する対立に直面した新しい内相ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー公爵はウィッテと協議し、皇帝ニコライはこれを受けて同年12月25日、きわめて漠然とした約束ではあったが改革の「ウカセ(英語版)(ロシア帝国勅令)」を発した。 ところが、1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件によってロシア社会は大きな衝撃を受け、これにより大混乱がもたらされた。特に、それまで皇帝専制主義を支えてきたロシア民衆のなかのツァーリ信仰は大きなダメージを受けた。ウィッテは請願デモの指導者であったゲオルギー・ガポン神父に500ルーブル(250ドルに相当)の金銭を与えてロシアから出国させた。しかし、この事件に対する抗議のストライキはロシアの主要都市において波状的に繰り返され、そのなかでは専制打倒の政治要求も掲げられたのである。 ウィッテは、人びとの要求に応えたマニフェスト(詔書)を政府が発するよう説いている。その改革のねらいは、ウィッテの指導力の下でゼムストヴォ(地方自治体)や地方議会の代表から選任された委員会によって、また、保守派であるはずのイワン・ゴレムイキンによっても、より詳細に語られた。3月3日、皇帝は革命家たちを非難する声明を発した。ロシア政府は、法令の遵守を訴え、これ以上の扇動を固く禁止することを表明する文書を発行した。この年の春までに、新しい政治システムがロシアで形成され始めていた。一方、日本との戦争を終結させる請願運動が2月から7月まで相次いでいる。しかしながら、反政府運動の急進化・過激化も一方では進行しており、5月には最初のソヴィエト(労農評議会)が成立し、6月には戦艦ポチョムキンの反乱が起こった。6月以降はまた、農民騒擾やストライキが頻発した。
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