フォードとその時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
自動車メーカーフォード・モーター創業者のヘンリー・フォードは反ユダヤ主義者であり、『国際ユダヤ人』(1920-1922年、四巻)を刊行した。フォードによれば、ユダヤ人を敵視するようになったのは、1915年末にユダヤ系ハンガリー人のフェミニスト・平和主義者のロージカ・シュヴィンメルと、ジャーナリストのハーマン・バーンスタインの企画でフォードが出資して「平和巡航船」を巡航させた時であった。フォードは、シュヴィンメルとバーンスタインを「非常に尊大なユダヤ人」といい、二人はユダヤ人による金権支配とマスコミ支配について語り、ユダヤ人だけが世界大戦を中止できると述べたことに嫌気がさし、同時に世界戦争と革命の原因がユダヤ人にあることを見抜いたと述べた。 フォードは新聞「ディアボーン・インディペンデント」を買収してフォード販売店に定期購読者を義務づけ、反ユダヤ記事を多数掲載した。編集長はアングロ・イスラエリズムの影響を受けた宗派ブリティッシュ・イズリアライツ(British Israelites)に属するカナダの記者ウィリアム・キャメロンだった。キャメロンはユダヤ人は古代イスラエル12部族の一つにすぎず、イスラエルの民を代表するものではないし、ユダ族は聖書時代から常に不和の種を撒いてきたと論じた。1921年フォード名義記事で「ユダヤ人は2000年間平和な生活を送ることができなかったし、今日でも衝突で引っ掻き回す運命にあるが、イスラエルの失われた10支族(アングロサクソン人のこと)に「反セム主義」と告発できるとは誰も考えない」とされ、アングロ・イスラエリズムの影響が見出される。 1920年12月1日、アメリカユダヤ人委員会は、ブナイ・ブリス、アメリカ・ユダヤ会議、アメリカ・シオニスト会議、アメリカ・ラビ中央協議会と連名で冊子「議定書:ボルシェヴィズムとユダヤ人」を発行した。12月4日、プロテスタント長老派教会は兄弟であるユダヤ人への攻撃を遺憾に思い、ユダヤ人の市民精神を信頼すると表明した。12月24日、ユダヤ教、カトリック、プロテスタント三宗派連合で少数民族とユダヤ人への迫害を断罪する三宗派共同声明を発表し、ユダヤ人のなかには革命運動で際立った役割を果たしていることは認めるし、ユダヤ人には善人も悪人もいるが、スラム、炭鉱、家畜処理場でユダヤ人が憎しみを減ずるものでなかったことについてはアメリカ人は恥をもつことになるだろうと述べられた。1921年1月16日のウィルソンら歴代大統領ほか著名人の共同声明は、反ユダヤ主義は反アメリカ的で反キリスト教的であると抗議した。『アメリカ』誌はフォードに抗議するユダヤ人について、ユダヤ人の素早さは称賛すべきであると報道した。 1921年に「ディアボーン・インディペンデント」紙は、ロンドンとニューヨークに代理政府を置いている「オール・ジュダーン(All Judaan)」はドイツへの復讐に成功したあと、イギリスを手中に収め、ロシアもユダヤ人に敗北してしまうだろうと述べて、寛容なアメリカはユダヤ人にとって約束の地なのだと述べた。また、フォードはニューヨークのユダヤ人がロシア最後の皇帝に代わる人物を任命したとも述べた。この記事に対してルイス・マーシャル弁護士は抗議したが、フォードは反論した。ジェイコブ・シフはフォードと揉めると大火事になってしまうと考え、抗議を断念した。さらに「ディアボーン・インディペンデント」紙は『シオン賢者の議定書』の紹介を始めた。1921年8月には『シオン賢者の議定書』のアメリカ版が出版され、経済界有力者や国会議員の手に入った。1921年末、フォードは、南北戦争を誘発したのはユダヤ人であり、リンカーンを暗殺したのもユダヤ人であると述べた。 作家チェスタトンはフォードを訪ねた後、フォードは慈善家であり発明者であり芸術家であるが「このような人間がユダヤ人問題の存在に気づいたというのなら、それは現実にユダヤ人問題が存在するということの証拠である。それは断じて反ユダヤ的な偏見のなせる業ではない」と評した。 1922年には「ディアボーン・インディペンデント」紙がユダヤ人弁護士アーロン・サピロから訴えられた。 同年、フォードの『国際ユダヤ人』ドイツ語版が出版者テオドル・フリッチュによって刊行された。ドイツ語版『国際ユダヤ人』では注釈がおびただしくあり、フォードが「ユダヤ人には悪玉も善玉もいる」と書いた箇所については「これは恐るべき幻想であり、全ユダヤ人が一体となって人類を蔑んでいるのである」とフォードを批判した注釈もあった。 1922年6月、ハーバード大学のアボット・ラッセル・ロウエル学長はユダヤ人学生を10%に制限する案を提出したが、これをボストンポスト紙がリークすると、アイルランド人、黒人組織やアメリカ労働総同盟などが非難し、ルイス・マーシャル弁護士らの活動で却下された。 1922年12月10日付のベルリナー・ターゲブラット紙や12月20日付ニューヨーク・タイムズ紙は、フォードはナチスを財政支援していると報道した。 1924年の移民制限法ジョンソン法(日本では排日移民法と呼ぶ)で、1890年を基準として移民の国籍別割当てを3%から2%に引き下げられると、1890年以後の東欧・南欧が制限され、また日本を含むアジアからの移民は禁止された。ポリアコフは、この移民制限法の目的は、ユダヤ人移民を制限するためのものであったとする。また、すでに1897年にロッジ共和党議員は移民に識字テストを義務づけるべきだと主張していた。 1927年夏、フォードはこれまでの反ユダヤ著作物でユダヤ人に対する不正があったと謝罪して、これらの出版物を廃棄した。フォードはドイツ語版『国際ユダヤ人』の回収を出版者フリッチュに依頼したが、フリッチュは損害賠償を要求したため、回収を断念した。後にナチスの機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』はフォードの謝罪について、ユダヤ人銀行家が英雄的な老兵をねじ伏せたと評した。また、フォードはワーグナー、チェンバレン、ヒトラーと同じく菜食主義者であり、強い酒、コーヒー、紅茶、タバコを御法度としたが、こうした「異物拒否」の強迫がユダヤ人に差し向けられたとポリアコフは見ている。しかし、フォード以後も、飛行家チャールズ・リンドバーグやカトリック司祭チャールズ・コグリンは1930年代に反ユダヤ主義発言を主張した。
※この「フォードとその時代」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「フォードとその時代」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- フォードとその時代のページへのリンク