戦争におけるカトリック連盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 10:08 UTC 版)
「カトリック連盟」の記事における「戦争におけるカトリック連盟」の解説
同月中に軍団は、高地オーストリアに移動、1620年12月8日プラハ北方における白山の戦いにティリー伯は勝利し、味方の被害を700人に抑えながら、敵の半数を殺戮ないし捕獲した。皇帝はボヘミアの支配を回復し、三十年戦争の緒戦はカトリック連盟の優勢に終わった。 ボヘミア戦争終了後、連盟の軍団は中部ドイツで戦った。しかし、1622年4月27日ミンゴロスハイムの戦い敗戦後は、スペイン軍と共闘を組むようになり、5月6日バーデン・ドゥルラッハ辺境伯とのヴィンプフェンの戦いに勝利する。これらの勝利の後、11週間の包囲の後、9月19日プロテスタント同盟の本拠地であるプファルツ選帝侯領の首都であるハイデルベルクを占拠、結果、フリードリヒ5世は、三十年戦争から手を引くこととなった。プロテスタント側は、クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが別の兵を挙げたが、シュタットローンの戦いで、15,000の兵のうち、13,000を失うという大敗を期した。この大勝利によって、三十年戦争における「プファルツ期」、つまりプロテスタント反乱の時期は終わった。 その後、1625年、デンマーク=ノルウェー王クリスチャン4世が、プロテスタントとしての信教上の立場と北部ヨーロッパでの覇権を求め参戦し、三十年戦争は新たな様相を呈する。 1626年8月26日及び27日、連盟軍はデンマーク軍とルッターの戦いを戦い、デンマーク軍はおよそ6,000の兵を失い、2,500の捕虜を出すなど、連盟軍の大勝利となった。この敗戦と、ヴァレンシュタインに対する敗戦により、デンマークは、1629年5月に「リューベックの和約」を締結し戦線より後退、カトリック連盟は、ドイツ全土を影響下に置くなど、その全盛期を迎えた。 しかし、帝国の覇権の危機は、1630年スウェーデン王グスタフ・アドルフの参戦によりもたらされた。 グスタフ・アドルフは軍をポメラニアに上陸させ北部ドイツの諸侯と同盟を組もうとしたが、連盟軍はスウェーデンを支援するマグデブルクを1631年3月20日から2ヶ月包囲、5月20日までに累計して40,000人の犠牲者を出した(マクデブルクの戦い)。この虐殺は火攻めによるもので30,000人の住民のうち、25,000人が犠牲になっている。 この虐殺は、味方を含めた多くの諸侯の反発を招き、日和見気味であった一部の諸侯を反皇帝勢力に走らせることになった。ティリー伯が命じたものであるかは不明である。マグデブルクは、エルベ川流域で戦略的に重要な都市であり、スウェーデンに対する補給拠点であった。従って、破却ではなく占領するのが戦略的に当然の行動であったはずである。 皇帝側の内部対立もあり、1630年フェルディナント2世は、ヴァレンシュタインを解任した。そうして、カトリック連盟は皇帝の管理下に入ることとなった。
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