連合国崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 08:52 UTC 版)
「ジェファーソン・デイヴィス」の記事における「連合国崩壊」の解説
1865年4月3日、首都リッチモンドの防衛が不可能となるまでに衰退した南軍は遂に首都防衛を諦めて撤退を開始し、デイヴィスも閣僚陣と共に列車でリッチモンド南方のダンヴィル市に政府機能を移動させた。彼はダンヴィルで連合国大統領として最後となった公文書を執筆すると、北軍の追撃を逃れる為にバージニア州から離れてより遠方のノースカロライナ州に向かい同州のグリーンズボロに到達した所で、リー将軍から合衆国軍の総司令官グラント元帥へ全軍降伏を行うとする報告書を受け取った。 連合国軍総司令官の地位にあったリー将軍による降伏が宣言されて尚、連合国国民の多くは抗戦意思を残していた。ルイジアナ州シュリーブポートで開かれた民衆集会ではデイヴィス政権は北軍への抵抗を続けるべきであり、連合国国民はそれを支持するべきとの声が次々と上がった。実際に政府内ではデイヴィスら閣僚陣をキューバに移動させてそこにアメリカ連合国亡命政府を樹立し、北部の占領統治に対する民衆の抵抗を指導する計画があったと言われている。事実はともかく、デイヴィスは閣僚と共に各州の支持者から支援を受け、自らの支持基盤でもあるミシシッピ州へと向かっていたと思われる。 しかし1865年5月5日、ジョージア州で北軍による追跡の手が迫り、もはやこれ以上の逃避行は無意味になりつつあった。支持者から提供されていた邸宅でデイヴィスは閣僚達を集め、最後の「閣議」を開いて連合国政府の解散を宣言し、その5日後の1865年5月10日にジョージア州アーウィンヴィルで郵政長官ジョン・レーガン、前テキサス州知事フランシス・ラボックと共に拘束された。このとき妻が所有していたオーバーコートを寒さを凌ぐ為に肩にかけて歩いていたが、以前から北部政府による南部批判の一環としてデイヴィスへの中傷が行われており、この一件も北部の新聞では「女装してまで逃げようとした」と歪曲される中傷を受けた。
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