連合国派遣軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 04:08 UTC 版)
「ナルヴィクの戦い」の記事における「連合国派遣軍の撤退」の解説
詳細は「アルファベット作戦」を参照 5月下旬には、ドイツ軍には降伏するかスウェーデンに逃げ込んで抑留される、の二つしか選択肢はないように思われた。ドイツ軍は北からノルウェー軍、西からフランス軍、南西からポーランド軍の攻撃を受けてスウェーデン国境の一角、Bjørnefjellを保持しているだけだった。しかし、5月中旬のフランスでの英仏軍の大敗により、ロンドンでは軍を撤退させることを5月24日に決定した。5月24日から25日にかけての夜、コーク卿は撤退命令を受けた。連合軍の指揮官はナルヴィクへの攻撃を行うことにより、撤退を偽り、鉄鉱石の積み出し港を破壊することに同意した。 ノルウェー政府と軍司令官は6月初旬にそのことを初めて伝えられ、ノルウェー側のイギリスに対する不信と失望をひどくした。フライシャーは単独でもドイツ軍と戦うことを望んでおり、つい6月5日ごろ、2個ノルウェー旅団のうちの片方に攻撃を命令した。ノルウェー政府も中立政策を行うべきか、自由北ノルウェーを設立するか可能性を探っていた。だが、この計画は無駄に終わり6月7日、ノルウェー国王、ノルウェー政府はイギリスへと亡命した。1940年6月4日から8日の間に全ての連合軍部隊はナルヴィクから撤退した。 ポーランド客船3隻(ソビエスキー、バトルィ、フラブルィー)が避難活動に参加した。フラブルィーは5月14、15日のドイツ軍の爆撃で沈没した。6月7日、ノルウェー政府はノルウェー国内での戦闘を放棄、イギリスへの亡命を決定、夕刻にはノルウェー国王、皇太子、政府閣僚はイギリスへ向けて出発、6月8日、ディートルはナルヴィクを奪還、6月9日、ノルウェーに残留することを選んだノルウェー国防軍最高司令官ルーゲはドイツ軍に休戦の申し込みを行った。その日の夕刻、ノルウェー国王及び政府は声明として、国は離れるがノルウェーの独立を取り戻すための戦いは放棄せず、国外での闘争を選んだことを発表した。 そして6月10日、ノルウェー最後のノルウェー軍は降伏した。
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