グランド・コントラバンド・キャンプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/30 16:03 UTC 版)
「コントラバンド」の記事における「グランド・コントラバンド・キャンプ」の解説
この噂はバージニア州南東部の奴隷社会に素早く広まった。「コントラバンド」になることは完全な解放を意味しなかったが、多くの奴隷達にとって明らかに解放の方向へ進む第一歩と見られた。バトラーの決断後、さらに多くの逃亡奴隷がモンロー砦を目指し、コントラバンドになることを申し出た。元奴隷の数が増えて砦の中の宿舎では収容し切れなくなったので、コントラバンド達は南軍が立ち去ったハンプトン市にあった廃墟から材料を持ち寄って、混雑する砦の外に家屋を建てた。コントラバンド達はその宿舎をグランド・コントラバンド・キャンプと呼んだ(あだ名は「スラブタウン」)。4年足らず後の1865年4月の終戦までに、およそ1万人と見積もられる者達が「コントラバンド」の身分を得て、多くはその近在に暮らした。 モンロー砦の近くではあるが、エリザベス市郡の防壁の外、後にハンプトン大学のキャンパスとなった地域で、コントラバンドの大人と子供がメアリー・S・ピークなど先駆けとなった教師によって読み書きを教えられた。バージニア州法では奴隷を教育することを禁じていたがこれに逆らい、教室は戸外の大きなオークの木の下で行われた。1863年、エイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言がそこにいたコントラバンドや自由黒人に読んで聞かされ、そのオークの木はそれ以後「解放のオーク」と呼ばれて有名になった。しかし、解放宣言を起草するときの政治的な配慮のために、コントラバンドにとっての真の解放は1865年遅くに批准された奴隷制の廃止を決めるアメリカ合衆国憲法修正第13条の成立を待たなければならなかった。 現代では、コントラバンド歴史協会がその子孫によって設立され、その物語を称え後世に伝えている。フィリス・ハイスリップのような著作家がコントラバンド奴隷の有様などについて書き記してきた。
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