A級戦犯容疑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:14 UTC 版)
敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、1945年12月2日に連合国軍最高司令官総司令部から日本政府に逮捕命令が出された(第三次逮捕者59名中の1人)。結果的に皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。本人も身の覚えがないと自覚しており、半年後に不起訴で釈放されたが、宮邸に帰宅してみると、集団強盗に襲われ家財の多くが盗難に遭っていた(犯人の多くは逮捕された)。 同じ皇族の元帥でも、統帥部長を長く務め軍部の動向にも大きく影響を及ぼした閑院宮載仁親王や伏見宮博恭王に比べれば、ほとんど軍務や時勢には関与しておらず、「誰も覚えていなかったような過去の人」(秦郁彦)、「間違いで引っ張ったとしか思えない」(半藤一利)と評された。浅見雅男は、つまるところは戦勝国による皇室への恫喝だろうと推測している。 同じくA級戦犯に指定されて出頭せずに自殺した近衛文麿は、守正王が出頭した新聞記事を見て「宮様も宮様だ。なぜ陛下のために、日本のために何故自決して下さらなかったのか」と無念そうに嘆いたという。 1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。連合国軍占領統治下の1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱。同月公職追放。1951年(昭和26年)1月1日、自邸で逝去した。76歳没。逝去後の1952年3月に公職追放解除。 2022年現在、ユジノサハリンスクの病院敷地内に「梨本宮守正王殿下消防御」と彫られた石碑の一部が放置されている。1936年に樺太を訪れた際、消防隊を視察した(すなわち「御視察」)記念に設置されたものとされている。サハリン州郷土博物館は、石碑の保存や展示について「日本の軍国主義を美化する」ことや「疑わしい人物を助長すること」を望んでいないとしている。
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