A級戦犯容疑と「巣鴨日記」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:06 UTC 版)
「笹川良一」の記事における「A級戦犯容疑と「巣鴨日記」」の解説
1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し笹川を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。A級戦犯容疑者として12月11日に巣鴨プリズンに入獄したが、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった(翌年には公職追放を受ける)。 大東亜戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後連合国の主要国であるアメリカ合衆国の方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦争犯罪者は、反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース)、1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党を、さらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。 上記のように、笹川は戦争中に戦争犯罪指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、アジア・太平洋地域における戦争責任は、日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。 ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る。 笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが、繰り返し書き付けられている。 この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。 一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う。このことが日本のエスタブリッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」と評して、「ここは娑婆の20倍、30倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという。 後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り
※この「A級戦犯容疑と「巣鴨日記」」の解説は、「笹川良一」の解説の一部です。
「A級戦犯容疑と「巣鴨日記」」を含む「笹川良一」の記事については、「笹川良一」の概要を参照ください。
- A級戦犯容疑と「巣鴨日記」のページへのリンク