A級戦犯合祀に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 19:45 UTC 版)
最高裁判所元長官で英霊にこたえる会初代会長・石田和外の強い勧めで、宮司に就任した。松平は「東京裁判を否定しなければ、日本の精神復興は出来ないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだ」と云う意見を、石田に言った。それに対して石田は、「これは国際法その他から考えて、祀ってしかるべきものだ」と明言したが故に、命がけで神社を創建の趣旨に違わない本来の姿で守ろうと決意したと云う。松平が宮司になって考えたのは、何か決断を要する場合、祭神の意に沿うか沿わないか、遺族の心に適うか適わないか、それを第一にして行くとの方針の下に、次の三原則を定めた。日本の伝統の神道による祭式で、御霊をお慰めする。 鳥居や神殿などの神社のたたずまいを、絶対に変えない。 明治天皇が命名した社名を変えない。 A級戦犯14柱の合祀についての松平の考えは、「国際法的に認められない東京裁判で戦犯とされ処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖国神社は僭越にも祭神の人物評価を行って祀ったり祀らなかったりするのか、となる」であった。故に靖国神社の記録では、戦犯とか法務死亡と云う言葉を一切使わないで、「昭和殉難者」とすべし、という「宮司通達」を出し、これを徹底させた。 松平は、1970年代に遺族などが要望していた国家護持法案には断固反対の立場で、「戦前と異質な、戦後の国家による国家護持では危険なので、靖国神社は、国民一人一人の「個の連帯」に基づく国民護持・国民総氏子で行くべき」と強く提唱し、靖国神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅持した。宮司退任に当たっては、「権力に迎合・屈伏したら、創建以来の純粋性が失われてしまう」ことを懸念し、「権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないと不可である」ということを、次の宮司への一番の申し送りとしたと云う。また、国家護持反対の理由として松平は、宮司就任後、明治以来の同神社の財政状況調査に着手し、同神社は当時の明治政府によって創建された一方、収入のほとんどが玉串料やお賽銭など社頭収入であり、実質的に民営である事実を強調した。更に、松平が国家護持反対を確信するに至ったのが、1985年の終戦の日の中曽根康弘元首相の公式参拝である。中曽根が「手水」を使わなかったこと、玉串を捧げなかったこと、「二礼・二拍手・一礼」の神道形式をとらなかったこと、お祓いを拒否したこと、更には参拝の際、ボディーガードを伴い行ったことを問題視、激しい憤りを抱いていたとされ。中曽根が戦後の歴代首相として初めて公式参拝と表明して参拝に訪れた際、松平は出迎えに応じることはなかった。同神社の宮司が参拝に訪れた首相を出迎えなかったのは後にも先にも1985年の終戦の日ただ一度だけである。 松平が死去したちょうど一年後というタイミングである2006年(平成18年)7月20日、A級戦犯14柱を合祀した松平に、昭和天皇が強い不快感を覚えていたとする、いわゆる「富田メモ」とされる断片が報道され、論議を起こした。侍従・卜部亮吾の記した「卜部亮吾侍従日記」(御厨貴ら監修)のうち、2001年(平成13年)8月15日の日記に、「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」と記述されていることが明らかになったとされ、また昭和天皇崩御前後の日記には、富田メモと同様の記載がされていると報道された。(真偽について、および木戸幸一元内大臣の『木戸日記』との整合性については「富田メモ」項目参照。) 共同通信の松尾文夫の取材に対して「合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、さからってやった」と語っている。
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