練習機による特攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:16 UTC 版)
大戦末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練、二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(九五式一型練習機・九三式中間練習機)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため極端に速度が遅かった。 日本軍側もその低速ぶりは問題視しており、1945年5月25日に夜間特攻攻撃に特攻出撃した練習機白菊を発見したレーダーピケット艦が、「85 - 90マイル(時速140km/h前後)の日本機がアメリカ軍の駆逐艦を追っている」という打電を行ったが、その無電を傍受して聞いた第5航空艦隊の参謀が、「アメリカ軍の駆逐艦が日本機(白菊)を追いかけている」と聞き違いするぐらいであった。第5航空艦隊司令宇垣纏中将も「特攻機も機材次第に欠乏し練習機を充当せざるべからずに至る。夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数はあれども之に大なる期待はかけ難し」と、機材欠乏で練習機を特攻機にせざるを得ない状況となったが、戦力にはならないとの見解を示している。 実際にこの25日の夜間には練習機白菊合計49機(未帰還19機)が出撃しているが、駆逐艦ゲストに軽微な損傷を与えたのみだった。 練習機で出撃する搭乗員は年端もいかない少年兵が多く、その出撃時の指揮官と少年兵らのやり取りを聞いていた当時報道班員をしていた作家山岡荘八は、少年兵らの幼さにやりきれない思いになったという。ある少年兵が「沖縄に到達したらどのような艦船を目指せばいいんですか?」と質問したのに対し、指揮官が目を涙で真っ赤にしながら「艦種なんてなんでもいい、沖縄には敵はゴマンといるんだから目をつむってブンブン回せ、そしたら敵の方から当たってくれる。まごまごしてると撃ち落されるぞ」と答え、少年兵らが「はーい」と無邪気に返事をしているのを見て、居た堪れなくなってその場を立ち去り、葉桜の陰で慟哭(どうこく)したという。 しかし、司令部の期待度の低さに反して、白菊特攻は戦果を挙げるようになり、1945年5月28日に駆逐艦ドレクスラー、1945年6月21日に輸送駆逐艦バリー と中型揚陸艦 LSM-59の合計3隻を撃沈する戦果を挙げている。撃沈された駆逐艦ドレクスラーの乗組員は、白菊が通常の日本機よりも速度が速いと感じ、操縦も対空砲火を交わしながらほぼ艦中央に突入する巧みさであったため、実際は訓練も十分でなかったはずの白菊搭乗員であるが、非常に経験を積んだパイロットに見えたという。 劣速のため日中の攻撃ができず、苦肉の策で夜間攻撃を主に運用された白菊特攻隊ではあったが、夜間の特攻はレーダーを最大限活用していたアメリカ海軍艦艇にも脅威であり、特攻機が対空砲火の曳光弾を辿って、艦の中央部にある煙突などの重要箇所に突っ込んでくるため、夜間の特攻機に対する各艦個別の発砲を禁じたほどであった。 また終戦直前には、複葉機の九三式中間練習機も特攻に投入されたが、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦キャラハンを撃沈し、30日にはカッシン・ヤングを大破させプリチェットに損傷を与えた。 九三式中間練習機は7機の損失(出撃11機)で3隻(命中4機)の駆逐艦を撃沈破する戦果を挙げており、有効率が非常に高かったため、アメリカ軍は練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている。 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、93式中間練習機では9mでしか作動しない)。 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。 アメリカ側はこういった練習機や、九九式艦上爆撃機の様に通常攻撃では連合国軍艦隊に通用しなくなっていた固定脚等の旧式機が、特攻では戦果を挙げていることを見て「こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と、特攻では、旧式機でも戦力になると前向きな評価をしていた。
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