岩川基地
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芙蓉部隊が所属していた鹿屋基地は、海軍航空隊特攻の最大基地であったため、特攻に苦しめられたアメリカ軍から目の敵にされ、B-29が日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、 鹿屋基地などの九州の航空基地の攻撃に転用されるなど、激しい攻撃を受けるようになったので、美濃部はたまりかねて、5月中旬、芙蓉部隊を鹿屋から約27kmに離れた岩川海軍航空基地に移動させている。この岩川の移動については、美濃部は自ら車で相応しい基地を探して回った際に見つけて、美濃部が主導したと主張しているが、当時の記録では、九州を襲ったアメリカ軍機動部隊に有効な反撃ができなかったのを重く見た第5航空艦隊司令部が5月15日に夜間戦闘機隊の配備を「岩川又は志布志」と定めており、その命令により移動したことになっている。 岩川基地は、海軍が1944年5月に飛行場建設を計画、その発表がなされた5月7日に、地権者に対して40日あまりで立ち退きしなければ住居を焼き払うといった海軍の恫喝により、総面積530haの土地が強制収用され、海軍の技術士官の指揮、地元の土木業者の施工により構築が進められた。近隣の福山小学校の生徒による勤労奉仕などの地元の住民の献身的な協力もあり、1945年4月中旬には1,300mの滑走路も完成して、発着陸も可能となっていた。ちょうどその頃に日本軍は全国各地に特攻機出撃用基地として、アメリカ軍から発見されないような「秘匿飛行場」を造成する計画を立てていた。1945年4月から整備に着手し全国約40カ所に造成する計画であったが、岩川基地もそのうちのひとつに選ばれて、佐世保鎮守府の第3214設営隊に対して、鎮守府長官より4月25日付発令第187号命令「岩川海軍基地特攻用秘匿基地造成二協力セシムベシ」が命じられ、第3214設営隊は岩川に進出している。 その後、岩川基地は特攻用の「秘匿飛行場」ではなく、第5航空艦隊によって夜間戦闘機部隊の基地と決められ、第5航空艦隊より美濃部に岩川基地への移動が命じられた。岩川基地は芙蓉部隊が来るまでに、地元の業者の尽力及び地元の住民の協力により、分厚い竹筋コンクリートで覆われた地下発電所、通信室、食料貯蔵庫、退避壕などの数多くの地下トンネル、近隣を流れる菱田川から取水し浄化している上水道施設などの施設が整った飛行場となっており、直ぐにも使用できる状況であったが、兵舎のみが未施工であったので、防風林で囲まれた民家跡に木造で急造している。 岩川を基地とすることとなった美濃部は、事前の工事によってほぼ完成していた飛行場を、ダバオや藤枝で、自分が指揮する部隊の航空機を多数地上で撃破された反省を活かして、徹底したカモフラージュをすることとしている。移動式の家屋4棟に樹木10数本と牛10頭と大量の草や枝葉を準備し、航空機が離着陸したあとは、滑走路上に草を散布し、家屋や樹木や牛を設置して牧場に見せかけている。散布する草や樹木は、常に青々としたものを準備するため、農民に2万円(2017年当時で3,000万円相当額)を支払って草刈りや枝葉の収集を依頼していた。「岩川は夜戦隊のみにて使用し周囲に山林恵まれ居る故に好都合なり」との評価もあったが、美濃部は工夫と熱意によるものと主張している。このカモフラージュが美濃部の独創と言われることもあるが、陸軍はフィリピンの戦いで、第4航空軍指揮下のマリキナ飛行場において、飛行場の守備兵が雑草を刈り集めて滑走路一面に敷きつめるという擬装を岩川基地に先駆けて行っていた。マリキナ飛行場の場合は岩川基地よりも手が込んでいて、雑草が4~5時間で変色してしまうため、毎日新しい雑草を刈り集めていた。そのおかげでマリキナ飛行場は、いつも青々とした野原のように見えていたという。また、他の「秘匿飛行場」でも同様な滑走路秘匿のカモフラージュは行われており、岩手県奥州市水沢に造成された陸軍航空隊の「秘匿飛行場」である小山飛行場においても、滑走路を秘匿するため、移動式の家屋や鉢植えなどが滑走路に置かれるなど、岩川と同じようなカモフラージュが行われており、当時の日本軍では広く行われていたようである。 基地を完璧に偽装できたと考えていた美濃部は、沖縄から出撃し岩川基地周辺上空を通過して、宮崎・鹿児島などの南九州を好き放題に空爆していたB-25ミッチェルなどのアメリカ軍機に対して、基地の露見を恐れて迎撃を禁止していた。周辺の住民は「戦闘機隊なのになぜ上がらないのか」「逃げ隠れしているのか」と不満を抱いており、芙蓉部隊搭乗員も、何の妨害も受けず我が物顔で基地上空を通過していく敵機を見て口惜しさを募らせていたが、美濃部が迎撃を許可することはなかった。美濃部主導のこの偽装によりアメリカ軍の目を欺き通し、終戦まで岩川基地が発見されることはなかったと言われることもあるが、少なくともアメリカ軍は、1945年3月に建設中(符号u/c under constructionの略)の岩川基地を空撮して詳細な位置を把握し、目標番号2511番とナンバリングまでしており、終戦時点では完成し稼働している飛行場(符号a/f airfieldの略)として把握していた。これは、他の「秘匿飛行場」も同じような状況で、日本軍が苦心して造成し、カモフラージュした「秘匿飛行場」の多くは、岩川基地と同様にアメリカ軍からは丸見えであったことが、戦後の研究で判明している。しかし、結果的に岩川基地は終戦まで一回の爆撃も受けず、南九州の基地では唯一地上での損害がなかったといわれる。 芙蓉部隊が岩川に移動していた同じ時期に、菊水七号作戦が発令され、第5航空艦隊と陸軍の第6航空軍は、5月24日深夜から沖縄戦開始以降最大規模で沖縄の敵飛行場に攻撃をかけることとし、多数の爆撃機と飛行場への空挺特攻部隊義烈空挺隊を投入したが、今まで飛行場攻撃を主要任務としてきた芙蓉部隊は、24日は岩川基地に移動完了した日であり、美濃部は移動で疲労した搭乗員を気遣って、この日は作戦会議開催等の名目で出撃を回避している。美濃部は搭乗員らが今でいうエコノミークラス症候群にならないよう按摩の手配をし、夜には美濃部の提案で蛍狩りを肴に酒席を設けるなどの気遣いもあった。出撃休息日となった芙蓉部隊に対して、陸海軍の爆撃機と義烈航空隊は、アメリカ軍の激烈な迎撃で多大な損害を被ることとなったが、読谷飛行場で航空機38機を完全撃破もしくは大破、20名の死傷者、ガソリン70,000ガロン焼失、半日飛行場使用不能、嘉手納飛行場で一時使用不能、伊江島飛行場で60名の死傷者を出させるなど、沖縄戦での日本軍による飛行場攻撃で最大の戦果をあげている。 また、岩川には、練習機白菊で編成された西条海軍航空隊の特攻隊も進出してきた。岩川基地の庶務の管轄は九州海軍航空隊であったが、特攻の西条空に対して芙蓉部隊は、支給される食材の質に大きな差をつけられ、副食が昆布・ひじき・あらめといった海藻類ばかりになっていた。美濃部らが藤枝にいた頃、基地主計課の竹田という下士官が、物資不足のなかで基地のありったけの砂糖を集めて汁粉作ったが、藤枝の食糧事情をよく認識していなかった美濃部は、出された汁粉が砂糖不足で甘くなかったので「こんなものが飲めるか」と怒鳴って突き返し、竹田を涙ぐませたことを悔いており、美濃部は食事内容の格差の原因は芙蓉部隊が「特攻隊ではないから」から差別されていると考えて、管轄の九州海軍航空隊を飛び越えて、直に第5航空艦隊司令部に食事内容改善の要求を行っている。第5航空艦隊は美濃部の要求を受けると佐世保鎮守府に調査を依頼、鎮守府の調査団が速やかに岩川に調査に来たが、手違いで岩川基地を整備していた海軍設営隊の3214施設隊と同じ食糧基準となっていたことが判明したため、調査後ほどなく潜水艦乗組員用の最高級の食材を満載した貨物列車が岩川駅に到着した。そのなかには、コーヒーや紅茶といった嗜好品や、当時の日本では贅沢品であったコンビーフも大量に入っていた。また、官給品の食糧の他にも自給自足を標榜していた芙蓉部隊には、周囲の農家から大量の鶏卵や農産品の差し入れがあり、牛が一頭差し入れられたときには、みんなの食事にステーキが出た。フィリピンで戦っていた時は、豪勢な食事をとる司令官クラスに嫌悪感を抱き、唯一粗食に甘んじていた有馬を敬っていた美濃部であったが、芙蓉部隊の食事は他の部隊はおろか、藤枝で訓練していた同じ芙蓉部隊隊員よりも豪勢なものとなり、4月5日に事故で火傷を負って藤枝で療養していた坪井晴隆飛曹長は、岩川に復帰すると食事の差に驚き「えらいごちそうが出るな」と同僚に話したと回想している。 芙蓉部隊の活躍を見ていた第五航空艦隊司令長官宇垣は、岩川基地を視察した1945年(昭和20年)7月23日(廿三日)の『戦藻録』に、美濃部について「芙蓉部隊長は水上機出身なるがよく統率して今日迄の活躍は目覚ましきものなり」と記述している。第五航空艦隊司令部は持病のマラリアで定期的に高熱で寝込んでいた美濃部の指揮能力を懸念しており、人事局に美濃部の交代要員を望み、座光寺一好少佐が第九〇一海軍航空隊から芙蓉部隊に異動してきたということがあったが、美濃部は芙蓉部隊指揮官を更迭されることを拒否、司令長官である宇垣に引き続き芙蓉部隊の指揮をとることを直談判し、宇垣は美濃部からの要請を受け入れて「岩川基地指揮官を芙蓉部隊岩川派遣隊指揮官に指定す」(天航空部隊命令第45号)という、一部関係者にしか理解不能な辞令を発令、司令部の方針に反して、引き続き美濃部が岩川の芙蓉部隊の指揮官であることを保障し、座光寺は美濃部の副官格として藤枝に異動させた。岩川基地の視察のさいに宇垣は「この辺は米軍上陸の矢面となろう。この地は君に委ねる。多くの部下を抱えて大変だろうが、よろしく頼む。もう再び会うことはないかもしれんなぁ」と美濃部に親しげに語りかけている。美濃部は宇垣の思いやりで胸が熱くなり「ご心配をおかけします。未熟者ですが精いっぱいやります」と答えるのが精一杯であった。美濃部は、宇垣を「芙蓉部隊作戦の理解と応援者」のひとりとして感謝している。宇垣もこの視察はよほど満足したようで、かろうじて空の明るさが残る19時まで岩川に滞在し、暗くなる前にようやく鹿屋への帰路についている。
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