掃海駆逐艦時代・ソロモン戦線
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「ホーヴェイ (駆逐艦)」の記事における「掃海駆逐艦時代・ソロモン戦線」の解説
1940年、ホーヴェイは掃海駆逐艦に改装され、11月19日付で DMS-11 に再分類された。集中的な訓練のあと真珠湾に回航され、1941年2月1日に到着。1941年12月7日の真珠湾攻撃当日には真珠湾に停泊しておらず、僚艦チャンドラーとともに真珠湾から20マイル離れたところで砲術演習を行っていた重巡洋艦ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) に随伴し、対潜哨戒を行っていた。攻撃後ただちに真珠湾に戻り、1942年5月20日まで真珠湾周辺海域の哨戒と護衛任務に従事。その後、サンフランシスコ行の20隻の輸送船団の護衛で真珠湾を出港し、5月31日に到着した。ホーヴェイは6月中旬には真珠湾に戻り、7月10日に兵員輸送艦アルゴン(英語版) (USS Argonne, AG-31) を護衛して真珠湾を出港、南西太平洋方面に向かった。7月23日にフィジーに到着し、ここでリッチモンド・K・ターナー少将の南太平洋両用戦部隊の掃海艇隊に編入された。長いアイランドホッピングの幕開けとなった8月7日のガダルカナル島上陸作戦では輸送船団の直衛任務に就き、8時を回ってからはツラギ島の対岸にあるガブツ島(英語版)の東側に陸上部隊の上陸させるための艦砲射撃を行った。日本軍の沿岸砲台はすぐさま反撃するが、ホーヴェイその他の艦艇からの正確な砲火が反撃を沈黙させ、ホーヴェイの任務はガブツ島とブンガナ諸島間の掃海に移った。8月8日朝にはレンゴ水道(英語版)で規模の大きな日本軍雷撃機の攻撃を受けたが、集中的な対空砲火はこの攻撃を無意味なものにした。 ホーヴェイはガダルカナル島周辺海域の哨戒に9月13日まで就いたあと、補給のためニューカレドニアに下がる。ここで海兵隊員をヌデニ島からサモアに運び、ニューカレドニアに戻る。10月10日、ホーヴェイは127本のガソリン入りドラム缶を搭載して2隻の魚雷艇を引き連れてツラギ島に向かう。しばらくの間はガダルカナル島とエスピリトゥサント島間の船団護衛に従事したのち、1943年4月19日にサンフランシスコに到着してオーバーホールに入った。メア・アイランド海軍造船所で5月31日まで整備を受けたのち外洋に出て、8月10日にニューカレドニアに到着する。しばらく護衛任務に就いたのち、10月30日にセオドア・S・ウィルキンソン少将の第三水陸両用戦部隊に加わり、11月1日のブーゲンビル島タロキナ岬への上陸作戦に参加する。上陸後の一週間の間はエンプレス・オーガスタ湾で警戒と掃海にあたった。 年明けて1944年、ホーヴェイはソロモン方面で護衛に従事。4月5日に揚陸艦リンデンウォルド(英語版) (USS Lindenwald, LSD-6) を護衛してツラギ島を出港し、マジュロに向かった。リンデンウォルドの護衛任務を終えると4月11日にエスピリトゥサント島に戻り、4月20日にはマヌス島に進出して交換用の航空機を提供する第34.9.3任務隊に合流した。任務隊は4月29日にトラック諸島を攻撃する第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)と合同して交換任務を遂行する。ホーヴェイはツラギ島に向かい、真珠湾を経由して5月31日に西海岸に到着した。
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