エンプレス・オーガスタ湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 05:31 UTC 版)
エンプレス・オーガスタ湾(Empress Augusta Bay)は、パプアニューギニア、ブーゲンビル島西部に位置する大きな湾である。ブーゲンビル島の島民にとって主要な漁場である。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇后アウグステ・ヴィクトリアに因んで命名された。
- 1 エンプレス・オーガスタ湾とは
- 2 エンプレス・オーガスタ湾の概要
エンプレス・オーガスタ湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 10:16 UTC 版)
「アーロン・S・メリル」の記事における「エンプレス・オーガスタ湾」の解説
「ブーゲンビル島沖海戦」も参照 メリルが日本艦隊と再び戦う戦場はブーゲンビル島近海であった。ブーゲンビル島の戦いのため10月31日未明にツラギ島を出撃した第39任務部隊は、翌11月1日にブカ島とショートランドを艦砲射撃してエンプレス・オーガスタ湾に上陸した味方部隊の援護を務める。日本海軍は上陸部隊を攻撃するため、大森仙太郎少将率いる連合襲撃部隊を差し向けた。第39任務部隊は艦砲射撃と空襲回避で燃料をかなり消費し、しかもほとんど睡眠もとっていない状況ではあったが、メリルは大森の日本艦隊を迎撃するため、敢然と第39任務部隊の諸艦艇をエンプレス・オーガスタ湾口に展開して待ち受ける。 11月1日深夜から11月2日未明にかけて行われたブーゲンビル島沖海戦において、メリルは限られた戦力をあくまで温存するため、慎重な戦法で日本艦隊の撃退に全力を注いだ。巡洋艦隊に丁字戦法で迎撃させ、駆逐隊には日本艦隊の横腹を突かせた。戦闘はおおむねメリルの構想どおりに進んだが、日本側が照明弾を投下してレーダーの効果を半減させ、また日本艦隊の砲雷撃で軽巡洋艦「デンバー」が被弾、駆逐艦「フート」が被雷大破するなどし、メリルは煙幕を張って避退を命じる。これを大森が「数隻の米重巡を撃沈した」と錯覚して同じように避退を命じ、日本艦隊は上陸部隊に一指も触れることなく戦場を去っていった。第39任務部隊は軽巡洋艦「川内」などを撃沈して日本艦隊を追い払い、上陸部隊を守るという任務を全うした。大森は解任され、後詰でやってきた栗田健男中将の艦隊も11月5日と11日のラバウル空襲で大きな損害を受けて退散し、ブーゲンビル島の戦況はアメリカ軍優位で進んだ。 12月11日、メリルはビラ・スタンモーア夜戦の戦功により勲功章を、ブーゲンビル島沖海戦を含むブーゲンビル島の戦いの戦功により海軍十字章をそれぞれ受章した。「モントピリア」の艦尾でハルゼーの代理であるオーブリー・フィッチ中将(アナポリス1906年組)から勲功章と海軍十字章を授与されたメリルにとって、1943年12月11日は記念すべき良き日となった。メリルはその後も1944年3月26日に「モントピリア」を去るまで第39任務部隊を指揮し続け、「スロットで一隻も失っていない、日米双方で唯一の提督」として、その名声をさらに高めた。 メリルは後年、太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツ元帥(アナポリス1905年組)により、レーダーを駆使した夜戦戦法を上手く吸収して「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った」3名の指揮官の一人として、ベラ湾夜戦の覇者フレデリック・ムースブラッガー中佐(アナポリス1923年組)、ベラ湾夜戦での戦法を立案し、セント・ジョージ岬沖海戦の覇者でもあるアーレイ・バーク大佐(当時、アナポリス1923年組)と並んで賞賛された。もっとも、ブーゲンビル島沖海戦については「戦術上の教義と、その実行が適切であった」点は賞賛したが、レーダー射撃の精度と目標配分の点がマイナスであったと指摘した。
※この「エンプレス・オーガスタ湾」の解説は、「アーロン・S・メリル」の解説の一部です。
「エンプレス・オーガスタ湾」を含む「アーロン・S・メリル」の記事については、「アーロン・S・メリル」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- エンプレス・オーガスタ湾のページへのリンク