ソロモン戦線
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「フレデリック・C・シャーマン」の記事における「ソロモン戦線」の解説
合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)は、1930年から1932年まで「レキシントン」の艦長を務めていたこともあってか、「レキシントン」には深い愛着を持っていた。また、艦船を沈めた者には罰をもって対処する方針を採っていた。そのため、フレッチャーは結果的に日本軍の侵攻を断念させたにもかかわらず、この時は中将への昇進が見送られた。艦長だったシャーマンに対してはどのように対処したのかは定かではないが、少将に進級したシャーマンは、1942年末までキングの下で副参謀長として仕える。 その後、シャーマンは再び前線に出て、1943年からは南太平洋部隊(ウィリアム・ハルゼー大将(アナポリス1904年組))でデウィット・C・ラムゼー(英語版)少将(アナポリス1912年組)とともに空母を含んだ任務部隊の指揮を執る。この頃、南太平洋部隊には「病み上がり」の「サラトガ」と、1942年10月26日の南太平洋海戦で損傷した「エンタープライズ」 (USS Enterprise, CV-6) の2隻の空母がいたが、この時点での空母の絶対数が少なく、またラバウルからの日本軍飛行機を警戒するあまり、ハルゼーは空母をガダルカナル島より遠方に派遣することをせず輸送船団の護衛に専念させていた。「エンタープライズ」がオーバーホールで戦線から離れるに至り、アメリカ海軍はイギリス海軍から空母「ヴィクトリアス」 (HMS Victorious, R38) を借用して「サラトガ」とともに、ラムゼーの下で約1カ月間空母作戦を継続させた。5月15日、合衆国艦隊は各任務部隊の規模を艦隊規模に拡張して、番号を割り振った。以後、ハルゼーの南太平洋部隊は第3艦隊となり、同様に中部太平洋部隊は第5艦隊となった。シャーマンの「サラトガ」を基幹とする任務部隊も、以降は「第38任務部隊」と呼称されることとなった。 エセックス級航空母艦、インディペンデンス級航空母艦の諸艦が順次竣工し、訓練を経て前線に出てくるようになると、ハルゼーは新鋭空母の派遣を太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)に申し出るが、ニミッツは新鋭艦に経験をつけさせるため、中部太平洋にとどめ置いて南太平洋方面にはなかなか向かわせなかった。ブーゲンビル島の戦いを目前にしていたハルゼーは真珠湾へ飛び、艦船の増勢を改めて要請し、戦いにはわずかに間に合わないものの艦船の派遣が約束された。このうちの1隻、空母「プリンストン」 (USS Princeton, CVL-23) が第38任務部隊に入って作戦することとなったが、ハルゼーは艦船派遣に際してニミッツから、11月20日までに「サラトガ」を含む空母を返却、あるいは差し出すよう要求されていた。第38任務部隊は、ハルゼーがおそらく知らないところで第5艦隊に編入されていたが、これは当時、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦を控えており、主だった戦闘艦艇は第5艦隊に割り振られていた事情もあった。11月1日と2日、シャーマンの第38任務部隊の艦載機は、エンプレス・オーガスタ湾上陸作戦の支援のためブカ島およびブーゲンビル島の日本軍飛行場を空襲したが、この方面でアメリカ海軍の空母が作戦するのは、シャーマンが「レキシントン」艦長時代に接近したとき以来だった。第38任務部隊とともに主要な水上部隊だった第39任務部隊(アーロン・S・メリル少将)は、エンプレス・オーガスタ湾の湾外で大森仙太郎少将率いる日本艦隊と交戦してこれを追い払ったが(ブーゲンビル島沖海戦)、第39任務部隊は上陸作戦掩護から休みなく行動を続けており、海戦後の11月3日にはツラギ島に帰投して整備を補給を開始した。シャーマンの第38任務部隊もまた、補給のためレンネル島近海まで下がっていた。 事態は11月4日に大きく動く。この日、偵察の B-24 が栗田健男中将率いる日本艦隊を発見。この報告を受けたハルゼーは「南太平洋軍司令官としての全任期中に直面したもっともきびしい緊急事態」に即座に対処しなければならなかった。参謀が検討した結果、「第38任務部隊に、ラバウルで給油中の日本艦隊を空襲させる」という案が浮上して、すぐさま作戦計画を作り上げる。しかし、作戦計画を提出されたハルゼーには迷いが生じていた。アメリカの空母任務部隊はこれまで、ラバウルのような「強固に要塞化した陣地」への攻撃をしたことがなかった。また、作戦計画自体が1942年11月の第三次ソロモン海戦を思い起こさせ、海戦時にダニエル・J・キャラハン、ノーマン・スコット両少将に与えた命令に匹敵するものと考えていた。シャーマンが反撃を受け大きな損害を蒙る懸念すらあったが、最終的にはエンプレス・オーガスタ湾の上陸部隊を脅威から守るために、作戦計画を了承した。11月5日に行われた空襲は大いに成功し、栗田は艦隊をまとめてさっさとトラック諸島に逃げ帰った。戦果に気をよくしたハルゼーは第38任務部隊に加え、ニミッツが新たに派遣したアルフレッド・E・モントゴメリー少将(アナポリス1912年組)麾下の第50.3任務群に再度のラバウル空襲を命じる。しかし、11月11日に行われた空襲で戦果を挙げたのはモントゴメリーの第50.3任務群の方で、シャーマンの第38任務部隊はラバウルの東方海上に接近したものの、悪天候に妨げられて攻撃隊を発進させることができなかった。また、前回とは違って反撃を受けたため(ろ号作戦#11月11日(第三次ブーゲンビル島沖航空戦))、午後に予定されていた攻撃を取り止めて北上し、ギルバート方面にいる第5艦隊に合流していった。
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ソロモン戦線
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「ロバート・M・ハンソン」の記事における「ソロモン戦線」の解説
1943年6月、ロバートはソロモンの戦線に到着し、パピィ・ボイントン率いる「ブラック・シープ」VMF-214に、経緯がはっきりしないが配属される。このころ、日米両軍はニュージョージア島の戦いが間近に迫ろうとしていた時期であった。VMF-214時代のロバートは8月6日あるいは16日にベララベラ島上空で1機、8月26日にブイン上空で1機の計2機確実撃墜をマークした、9月には中尉に昇進するが、10月に入って理由は不明ながらVMF-215に転属となった。 VMF-215に移ってからのロバートは、11月1日からのブーゲンビル島の戦いで上空掩護を担当する。タロキナ岬上陸に際してはVMF-215は零戦隊に護衛された九七式艦攻8機と交戦し、ロバートはそのうちの零戦2機と九七式艦攻1機を撃墜する活躍を見せたが、別の九七式艦攻の反撃を喰らって撃墜される。ロバートは助かって海上を漂流するが、やがて駆逐艦「シゴーニー(英語版)」 (USS Sigourney, DD-643) に救助されて九死に一生を得る。ところが、VMF-215ではロバートを行方不明扱いにしており、ハンソン家にもそのように通報してあったが、本人が帰還したことで通報が取り消される一幕があった。この時点でのロバートは、5機撃墜でエースの末席にいるだけの存在であった。VMF-215は休養のため一時後方に下がることとなり、ロバートの1943年の戦いは終わった。 1944年、VMF-215は戦列に戻る。1944年に入って早々の1月3日、ロバートが最初に配属されたVMF-214のボイントンが日本軍に撃墜され、捕虜となってソロモン戦線から消えることとなった。そして、ボイントンに代わってエースとして台頭したのがロバートであった。ロバートは1月14日から1月30日までの間に6度の出撃で確実撃墜20機、不確実撃墜2機をマークし、ハイペースで撃墜スコアを挙げたことからVMF-215の同僚から薄気味悪がられるほどの存在となった。また、ボイントンとは違ってマスコミに注目されることもなかったが、むしろ注目されるには活躍期間があまりにも短かった。1944年2月3日、ラバウル攻撃に加わったロバートはニューアイルランド島セント・ジョージ岬を攻撃中に反撃を受け、撃墜されて海中に突入し戦死した。ロバートが、翌2月4日の24歳の誕生日を迎えることは永遠になかった。戦死後、ロバートは大尉に進級し名誉勲章と海軍十字章を追贈され、名誉勲章は8月に入って母ジーンに手渡された。 なお、ロバートは編隊戦闘を嫌っていたのか常に単独で戦闘を行い、部隊仲間でロバートが撃墜する場面を見届けた者は少なかった。
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