フィリピン戦線へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 14:13 UTC 版)
「第68旅団 (日本軍)」の記事における「フィリピン戦線へ」の解説
旅団が改編を終えた10月20日、中部フィリピンのレイテ島に米軍が上陸を開始し、所在の第16師団との交戦が始まった。こうした戦況の激化を受けて、10月23日、台湾の第68旅団にもフィリピン派遣の大命が下り、第14方面軍は旅団のレイテ島投入を決定した。旅団は海軍の二等輸送艦や陸軍の機動艇により、合計五次に分かれて基隆からマニラまで輸送されることとなった。11月初旬、台北の第10方面軍司令部で行われた壮行会で、軍司令官の安藤利吉大将や幕僚たちを前にして、栗栖旅団長は次のような挨拶を行った。 「……途中(海没)が心配だが、無事上陸できたら、一個師団やそれ以上の戦力を存分発揮して内外の期待に応えうる自信がある。特に指揮官の能力及び部隊の練度は国軍においてこれ以上のものは望めまい。部隊の士気もまた旺盛である。夜襲・夜間戦闘についても対米戦法の訓練を重ね、その訓練成果を発揮する機会を一同待望している。……比島の虎の子決戦兵団として大いに活躍したい……」 しかし、マニラへの海上輸送路では既に米軍の攻撃による海没が相次いでおり、旅団もその被害から逃れることはできなかった。米軍機による度重なる空襲により、第一次輸送では海軍の第139号輸送艦が、第五次輸送では陸軍の機動第8号艇が撃沈されるなどの損害が生じ、歩兵第126連隊本部、歩兵砲中隊、速射砲中隊、通信隊などから多数の戦死者が出た。この基隆~マニラ間の海上輸送時の旅団の戦死者数は、約1,000名だったとする記録がある。 そして11月23日、ようやく旅団の全部隊がマニラに到着した。ここで特別輜重隊(660名)が追加された後、12月5日、旅団将兵は赤城山丸以下4隻の輸送船に分乗し、第八次多号作戦によりレイテ島オルモックに向けて出発した。しかし7日、米軍がオルモック南方のイピルへの上陸を行い、オルモックへの確実な輸送は絶望視される状況となった。このため、船団はオルモックへの輸送を諦め、レイテ島西北部のサンイシドロに擱座上陸を敢行した。結果的に、レイテ島への上陸を果たした旅団将兵は約4,000名だった。
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