艦名・戦歴
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④計画の6隻は舞鶴海軍工廠と三菱長崎造船所で3隻ずつ建造され、1942年(昭和17年)6月に1番艦秋月が竣工した。マル急計画では佐世保海軍工廠が加わり、浦賀船渠でも1隻建造された。 日本海軍の現場からは、艦名からまとめて月型(月クラス)と呼ばれることもあった。これについて「待合茶屋の名前ばかりつけて」という冗談があった。 秋月(あきづき) 1942年6月11日舞鶴海軍工廠で竣工。竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため駆逐艦2隻(浦風、朧)と共に空母瑞鶴の護衛として出撃した。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきたB-17を1機撃墜した。第四水雷戦隊旗艦として行動中、空襲を受けて中破する。修理後は第十戦隊旗艦として鼠輸送に従事。1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中した。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然艦橋下の構造物が切断した。秋月はやむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し長崎に帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになった。 1944年10月25日エンガノ岬沖海戦に参加、機動部隊の援護射撃中爆発を起こして沈没した。これは、「味方空母(瑞鳳)に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した(当時の艦長の憶測)」ともいわれている。また、機関科士官として秋月に乗り込んでいた山本平弥は著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(光文社NF文庫)の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。一部の書籍で秋月はアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。 照月(てるづき) 1942年8月31日三菱長崎造船所で竣工。同年10月、南太平洋海戦に参加する。同年11月中旬の第三次ソロモン海戦は二度の夜戦に参し、撃沈された金剛型戦艦2隻(比叡、霧島)から乗組員を救助する。ガダルカナルへの物資輸送の警戒艦旗艦(第二水雷戦隊司令官田中頼三少将座乗)として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没した。 なお、アメリカ軍は秋月型を当初はTERATSUKI class、終戦近くになってTERUTSUKI classと呼んだが、これらは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。 涼月(すずつき) 1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。完成後、物資輸送や艦隊護衛などの任務に就いた。1944年1月16日にアメリカの潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し初月に曳航され呉海軍工廠に帰還して大修理。同年10月17日にもアメリカ軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。艦首の復旧時に新造された艦橋は形状を簡易化した角ばったものとなった。これは清月以降の設計図によるものと考察されているが、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。しかし捷一号作戦直前に冬月と共に米潜水艦に雷撃され損傷。レイテ沖海戦や多号作戦には参加していない。菊水作戦時には戦艦大和および第二水雷戦隊僚艦と共に出撃した。だが戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け大浸水を来たす。戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。涼月は直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。1948年に解体され、涼月の船体は冬月と共に福岡県若松港の防波堤となり、軍艦防波堤と呼ばれた。 初月(はつづき) 1942年12月29日舞鶴海軍工廠で竣工。マリアナ沖海戦で、初めて空母機動部隊を護衛して対空戦闘を実施した。1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加、瑞鶴の沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡五十鈴と共に千代田乗員の救助に向かう。その救助作業中、ローレンス・T・デュボーズ少将指揮するアメリカ艦隊(重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近し砲戦となる。初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。この戦闘で、アメリカ軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している。 新月(にいづき) 1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第11水雷戦隊、続いて第8艦隊に所属してラバウルへ進出。7月6日、第三水雷戦隊旗艦としてコロンバンガラ島への輸送任務中、米艦隊との夜間水上戦闘で沈没、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将と共に全将兵戦死した(クラ湾夜戦)。秋月型駆逐艦の中で最も短い生涯を遂げた艦であった。 若月(わかつき) 1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第61駆逐隊に編入後、トラック泊地に進出。1943年10月末、ブーゲンビル島沖海戦で夜間水上戦闘に参加。ラバウル空襲で小破し、内地に帰投した。1944年6月のマリアナ沖海戦で第一機動艦隊旗艦大鳳が沈没すると司令長官小沢治三郎中将は若月に移乗、その後は重巡羽黒に移乗した。レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦後)から生還。奄美大島からフィリピンへ再進出し、レイテ島増援作戦に参加(多号作戦)。11月11日、第三次多号作戦で、第二水雷戦隊旗艦島風等と共に米軍機の攻撃を受け沈没した。 霜月(しもつき) 1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。建造中に舞鶴工廠からのボイラーの配送待ちで工事が遅延していたところ、回航された秋月に本艦の艦首を移植したため工期がさらに遅延する。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加した。再びフィリピン方面へ進出後の1944年11月25日、第三十一戦隊旗艦として行動中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将も戦死した。 冬月(ふゆつき) 1943年10月1日、『秋月型』に類別。1944年5月25日、舞鶴海軍工廠にて竣工。菊水作戦時には大和・涼月等と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎えた。戦後は工作艦として使用され、1948年に解体される。船体は涼月と共に若松港の防波堤となった。 春月(はるつき) 1944年12月28日、佐世保海軍工廠にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。 宵月(よいづき/よひづき) 1945年1月31日、浦賀船渠にて竣工。戦後復員輸送に従事し1947年戦時賠償艦として雪風と共に中華民国に引き渡され、中華民国艦「汾陽」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、後の研究で、この写真は引き渡された雪風(丹陽)に搭載替えされた時点のものであることが判明した。 夏月(なつづき) 1945年4月8日、佐世保海軍工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体された。 満月(みちつき、仮称艦名第365号艦) 本籍は呉鎮守府、建造所は浦賀船渠を予定。1945年1月3日、佐世保工廠で起工、同年12月竣工予定。2月5日、『秋月型』に類別。4月17日に工程16%で工事中止。1948年2月に解体終了。 花月(はなづき、仮称艦名第366号艦) 1944年12月26日、舞鶴海軍工廠にて竣工。1945年5月20日付けで海上挺進部隊に編成された。7月15日の第十一水雷戦隊解隊後は、第52駆逐隊(杉、樫、楓、梨、萩、樺)も三十一戦隊に編入されて海上挺進部隊に所属した。同隊の松型駆逐艦は艦尾に特攻兵器の人間魚雷回天を1基搭載したが、花月は回天8基登載とされた。天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、青島で調査された後、1948年2月3日に五島列島沖で実艦的として処分された。本艦以降竣工した艦は艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。
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