徴用動員と応徴士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
「中島飛行機半田製作所」の記事における「徴用動員と応徴士」の解説
太平洋戦争開始後、軍需生産の増強と労働力不足によって、徴用動員の適用が急速に拡大された。多くの半田市民が中島に徴用されたほか、県外からの遠方応徴士も増える。特に京都の西陣織関係者約2000人が1943年ごろ集団で半田に動員された。その他、群馬・埼玉・新潟・朝鮮半島咸鏡道などからの応徴士も多かった。敗戦時の記録では半田製作所への徴用者数は4731人とされる。宿舎には当初、寺院や紡績工場の寮があてられ、やがて家族を持つ徴用者のために住宅地が建てられたが不十分であった。東南海地震では17人の応徴士が犠牲になった。
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