徴用の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:08 UTC 版)
フランス商船が遊休状態になっているのに目を付けたのが、船舶不足に悩んでいた日本政府であった。日本の外務省は、第二次世界大戦参戦前の1941年(昭和16年)初頭までには、ヴィシーフランス政府・仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた。フランス側のジャン・ドクー(英語版)仏印総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島や上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し、日本軍の南部仏印進駐や1941年12月の太平洋戦争勃発後も交渉が続いた。しだいにフランス側は譲歩し、1942年(昭和17年)2月25日には、原田駐仏代理大使とヴィシー本国政府との間で、フランス船旗下でのチャーター方式とし、仏印・上海・日本間航路専用、中立義務違反となる軍需輸送には用いないとする旨の基本合意ができ、覚書が作成されるに至った。 ところが、日仏の交渉を知ったアメリカ政府は、ヴィシーフランス政府に対して抗議を行った。マルティニークなどアメリカ州内のフランス植民地の占領を恐れたヴィシー本国政府は、公然と傭船契約を結ぶことを避け、名目上は日本側の一方的な徴発の形式とすることを日本側に提案した。この提案を受ける形で、4月6日、日本側は、ドクー総督に対し、4月10日を交渉期限として徴発に移ることを通告し、4月11日に日本海軍が徴用実施を通告した。ドクー総督ら仏印当局はなおも不服としたが、本国政府からの徴発を容認する訓令を受けて引渡に応じた。 その後、傭船料など条件面の交渉が行われ、6月15日に特設砲艦永福丸砲艦長の堀内馨海軍大佐と仏印海軍司令官レジ・ベランジェ(Régis Bérenger)少将により日仏海軍の「徴用実施基礎協定」が締結された。チャーターではなく乗員無しの裸傭船の契約形態となり、戦災などによる喪失時には代船を返還するものとされた。アラミスは無期限貸与となり、傭船料は月額16万8千余円と定められている。
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