徴用と密入国
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朝鮮人徴用者の日本移入は1944年9月から1945年3月までの期間実施された。1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還している。 1959年の日本政府発表は、日韓併合による在日朝鮮人の数を245人としている。朝鮮人の朴代議士によると1933年当時、年間約5万人の朝鮮人が日本内地で増加していた。 日本政府は朝鮮人を帰還させようとしたが、占領下では占領軍が送還を徹底しなかったこと、主権回復後は李承晩政権が朝鮮人の送還を拒んだ。そして在日朝鮮人達もそれを強く求めることはしなかった。理由としては、朝鮮在住中に食糧難や仕事の難に陥り、朝鮮にいては食べていくことができなくなったことが挙げられる。金欠や飢えに耐えかねて、日本での高給な仕事を求め移住してきたので、今更祖国へ帰ったところで生きていく術はないのである。1955年6月18日に国会衆議院法務委員会では、朝鮮半島から密入国した者など彼らの日本国内における犯罪行為に関する事項が議題で取り上げられた。後の総理大臣となる小泉純一郎の父親である小泉純也法務次官(当時)は、「60万人と推計されている韓国人・朝鮮人のうち、日本を離れて祖国に戻りたいという人は一人もいないと言っても言い過ぎではない。」「向こうから、手段方法を問わず、命までかけて日本に密航しようとする人々が引き続き溢れている。このようにして入って来た人たちに対し、日本政府が国民の血税を投入し、彼らが生活できるよう面倒を見なければならない状況になっている。」「彼らを手厚くもてなさないと日本が人権を侵害しているというような問題提起をしてくる。見方によっては、日本国民の血税を犠牲にしつつ、むしろ彼らを日本で第一義にすることを要求しているのではないかと思われるレベルである。」と答弁している。答弁に対して、椎名議員は「どうにかして日本にさえ入れば、生活するのに何の問題もなくなる。だからどんどん入ってくるのではないか?」と述べている。更に在日韓国・朝鮮人の当時の様子について「戦勝国といっていばりにいばり抜いておる。私たち(選挙区)の町にも漁業家が相当あるが、向うへ行くたびにびくびくして出漁しなければならないという状態です。漁業においても締められておる。」「朝鮮人の中でも悪質な連中はヒロポンを製造、販売し、国民の保健を非常に傷つけておる、あるいはこっちに来て酒をどんどん作っておる。しかも国家の酒造税の収入を妨げておる。悪いことばかりしている連中が多い。」「これはこっちがあまり待遇をよくするから、朝鮮人の連中は、向うで食うに困ったならば日本に行った方がいい、日本に行きさえすれば待遇がいい、日本に行きさえすれば生活ができるというようなところからどんどん入ってくるのじゃないかと思う。」と様々な対策すべきと述べている。 1965年12月18日、朴正熙政権は、朝鮮総連に加担したものも韓国政府保護下に戻ることを希望し、分別なく故国をすてて日本に密入国しようとしたものについても韓国民として是非を問わないとすることを表明している。 2005年6月9日、マルハン社長の韓昌祐は、終戦の年、15歳の時、日本で働く兄の招きで密入国した、と述べている。
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