陸軍被服本廠朝霞出張所~東京陸軍被服支廠時代
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東邦電気研究所、銃器弾薬を生産した中央工業 新倉工場、計算尺を生産した逸見製作所 白子工場、風船爆弾の気球部分である和紙を製作した共和航空、同じく風船爆弾の高度保持装置フレームを製作した中外火工品 白子精機工場、菱興金属工業、日本鋳物工業、東京部品工場、山本螺子、松本興業、昭和食品、興和製作所など町工場が現在の和光朝霞地域に多くあり、中島飛行機ラジエター製作所である「皇国3002工場」と呼ばれた伸銅工場などもすでに操業しており、東武東上本線や幹線道路など輸送に適した立地であったことや都心から離隔してはいるが比較的近い場所にあることから、陸軍の白羽の矢が立った。 当初、赤羽から陸軍被服本廠の一部機能が移転した。その後も陸軍によって買収された10万坪に及ぶ大規模軍需工場である陸軍被服本廠朝霞出張所の建設が開始され、1941年(昭和16年)に正式操業を開始する。工場の本格操業に合わせ、1940年(昭和15年)には朝霞駅近くから被服本廠朝霞出張所までの引き込み線が作られている。 昭和20年4月21日、朝霞出張所は東京陸軍被服支廠に昇格したが、その約4か月後に終戦を迎えた。 米軍資料から南地区を含む被服廠地域を爆撃目標から外すなど戦後政策が考慮されていた。
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