陸軍被服本廠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 陸軍被服本廠の意味・解説 

陸軍被服本廠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/08 14:27 UTC 版)

陸軍被服本廠(りくぐんひふくほんしょう)は、東京都王子区(現・北区)にあった大日本帝国陸軍被服廠本所区から移転している。陸軍大臣直属。支廠として大阪陸軍被服支廠や広島陸軍被服支廠などが存在した。

概要

大震災直後、被服廠跡の敷地を埋める避難民の遺体。

1890年(明治23年)3月に制定した陸軍被服廠條例によって被服廠を本所区に設置。1903年(明治36年)には廠内に大阪支廠が開設され、1904年(明治37年)大阪に庁舎が完成するとともに移転した。また1905年(明治38年)6月廠内に広島派出所開設、8月に広島に移転した(その後支廠に昇格)。1908年(明治41年)、条例改正によって陸軍被服廠は陸軍被服本廠、大阪支廠は大阪陸軍被服支廠、広島出張所は広島陸軍被服支廠に改称[1]1919年に本所区から王子区赤羽台に移転。もともと1891年から被服倉庫があり一体化する目的であった。本所区の跡地は1922年逓信省東京市に払い下げられ、運動公園学校が整備される予定が立てられた。しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災により、住民の避難場所となったところに火災旋風が襲い、敷地内に避難していた約4万人のうち約3万8千人が死亡した。これは大震災全体の犠牲者の約1/3にも達する大惨事であった。

1944年には札幌陸軍被服支廠、19454月、東京陸軍被服支廠、仙台陸軍被服支廠、名古屋陸軍被服支廠、福岡陸軍被服支廠が開設されるも同年8月15日に終戦。旧満州にも奉天陸軍被服支廠(関東軍)が設置されていた。

終戦後は米軍に接収され、東京兵器補給廠の所属地となった。米軍住宅の赤羽ハイツが建設された。返還後、赤羽台団地が造成された。現在は建て替え工事が進み、ヌーヴェル赤羽台へと生まれ変わっている。

支廠

  • 大阪陸軍被服支廠
  • 広島陸軍被服支廠
  • 東京陸軍被服支廠(現・埼玉県朝霞市)
    • 陸軍被服本廠朝霞出張所が昇格し誕生。キャンプ・ドレイクを経て、現在は青葉台公園などになっている。
  • 札幌陸軍被服支廠
  • 仙台陸軍被服支廠
  • 名古屋陸軍被服支廠
  • 福岡陸軍被服支廠

廠長

脚注

  1. ^ 陸軍被服廠条例改正
  2. ^ 福川 2001, 522頁.
  3. ^ 福川 2001, 83頁.

参考文献

  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陸軍被服本廠」の関連用語

陸軍被服本廠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陸軍被服本廠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陸軍被服本廠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS