マニラ征服とは? わかりやすく解説

マニラ征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 08:14 UTC 版)

ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の記事における「マニラ征服」の解説

詳細は「マニラの戦い (1570年)」を参照 1569年末、300人のスペイン兵、騎兵数名現地人兵士たちがマルティン・デ・ゴイティに率いられセブ島出発しフィリピン中部ビサヤ諸島北部探検から開始した。彼らはパナイ島到達しミンドロ島中国人海上貿易商人遭遇し紛争になった。ゴイティとサルセードはミンドロ島東岸中国人海賊たち戦い、彼らを破り島から追い出したスペイン人植民者たちは後にこの海岸に入植地を築く。 1570年5月8日スペイン人植民者らはマニラ到達しマニラ湾入ったが、中国東南アジア交易するマニラ港規模豊かさをその目で見て圧倒された。彼ら一行ムスリムとなっている現地人たちに歓迎された。当地ムスリムの王、ラジャ・スリマン (Rajah Suliman) と同盟を結ぶふりをする間、ゴイティの兵士たちマニラ郊外で数週間キャンプ張った植民者たちがわざわざキャンプ張ったのは、現地人騙して彼らの来訪滞在があくまで短期間に過ぎない思わせるためでもあった。 5月24日スペイン人たちと現地人たちの間に争い起こった。これを契機に、スペイン兵たちはマニラ近郊トンドにあったムスリム居住区マニラの街に進軍しスリマン兵士たちとの戦闘開始された。重武装スペイン兵はスリマンの兵を破り一帯制圧した。こうして、マニラスペインによって征服された。 同じ頃、更なる援軍メキシコからセブ島到着していたが、これに刺激されたロペス・デ・レガスピはセブを去ることにした。彼は250人のスペイン兵と600人の現地人兵を連れてレイテ島パナイ島探検した。ロペス・デ・レガスピはゴイティとサルセードがマニラ征服した聞き、彼らの後を追い、翌1571年マニラ着いたマニラでは、ロペス・デ・レガスピは地元ムスリム共同体評議会、ラジャ・スリマン、マタンダ、ラカンデュラら、有力者たちと平和条約結んだ両者は、2人市長12人の評議員1人書記からなるマニラ評議会形成することで合意した。ロペス・デ・レガスピは1571年6月24日、ついに恒久的な入植地マニラ成立させた。そして城壁都市イントラムロス建設指示した。彼はこの街フィリピン諸島首都であり、西太平洋におけるスペイン政府恒久的な領土になった宣言した聖アウグスチノ修道会およびフランシスコ会の宣教師助力により、彼はフィリピン諸島政府樹立した。彼は最初フィリピン総督になり、現地人ローマ・カトリック改宗させていった彼の支配反抗する者たちは拷問され処刑されたが、彼らを支援した者たちは功績称えられエンコミエンダ制によりエンコメンデロ任命された。彼らは土地現地人委託され現地人キリスト教化保護をする代わり、彼らを労役のため徴発し税を取り立てる権利得た

※この「マニラ征服」の解説は、「ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の解説の一部です。
「マニラ征服」を含む「ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の記事については、「ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の概要を参照ください。

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