マニラへの帰還とは? わかりやすく解説

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マニラへの帰還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)

ダグラス・マッカーサー」の記事における「マニラへの帰還」の解説

ルソン島の戦い」も参照 レイテ攻略したマッカーサーは、念願ルソン島奪還作戦開始した旗艦軽巡洋艦ボイシ座乗したマッカーサーは、1945年1月4日800の上艦隊支援艦隊を率い1941年本間中将上陸してきたリンガエン湾目指し進撃開始したが、そのマッカーサー艦隊立ちはだかったのが特別攻撃隊特攻機特殊潜航艇であったマッカーサー旗艦であったナッシュビルルソン島攻略先立つミンドロ島の戦い特攻機攻撃を受け、323名の大量死傷者出して大破していたが、その時マッカーサー乗艦しておらず、ミンドロ島攻略部隊率いていたアーサー・D・ストラブル少将幕僚らが多数死傷している。特にマッカーサー衝撃与えたのは、戦艦ニューメキシコ特攻機命中してルソン島上陸作戦観戦するためニューメキシコ乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版中将戦死したことで、ラムズデンとマッカーサー40年来の知人でありその死を悼んだ特攻機攻撃激しさ増して護衛空母オマニー・ベイ撃沈、ほか多数艦船撃沈破しマッカーサー不安に陥れたが、特攻機攻撃戦闘艦艇集中しているのを見ると、側近軍医ロジャー・O・エグバーグに「奴らは我々の軍艦狙っているが、ほとんどの軍艦一撃くらっても、あるいは何発もの攻撃受けて耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船これほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と述べている。マッカーサー旗艦ボイシ特攻機特殊潜航艇再三攻撃されており、マッカーサーその様子を興味深く見ていたが、しばらくすると戦闘中であるにも関わらず昼寝のために船室籠ってしまった。爆発音などの喧騒の中で熟睡しているマッカーサーの脈をとったエグバーグは、脈が全く平常であったことに驚いている。やがて眼が覚めたマッカーサーは、エグバーグからの戦闘中にどうして眠れるのか?という質問に対して「私は数時間戦闘のようすを見ていた。そして現場の状況分かったのだ。私がすべきことは何もなかったからちょっと眠ろう思ったのだ」と答えている。 ルソン島上陸したアメリカ軍に対してレイテ戦力消耗した日本軍海岸線での決戦避け山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官山下首都マニラ戦闘巻き込まないために防衛諦め守備隊にも撤退命令出したが、陸海軍作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊中心とする日本軍14,000名がマニラ立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、市内への重砲による砲撃許可し激し市街戦の上住宅地80%、工場75%、商業施設はほぼ全て破壊された。マニラ市民犠牲10万人にも上ったが、その中には絶望的になった日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラに手を焼いた日本軍ゲリラ討伐による犠牲者含まれていた。武装ゲリラ跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民区別がつかず、老若男女構わず殺害したマッカーサー日本軍ゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力野蛮な手段訴えた」「軍人敵味方問わず弱き者、無武装の者を守る義務持っている……(日本軍犯した犯罪軍人職業汚し文明汚点となり」と激しく非難したが、その無武装弱き者武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われ戦犯となった山下裁判では、山下弁護側からマッカーサーの父アーサーフィリピンアメリカ軍司令官であった時にフィリピン独立運動アメリカ弾圧した時の例を出され血なまぐさいフィリピンの反乱』の期間、フィリピン鎮圧するために、アメリカ人考案し用いられ方法を、日本軍模倣したようなものである」「アメリカ軍討伐隊指揮官スミス准将は「小銃持てる者は全て殺せ」という命令出した」と指摘されマッカーサー激怒している。 「マニラの戦い (1945年)」も参照 日本軍その後圧倒的な火力アメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラ圧倒されながら絶望的な戦い続け、ここでも大量餓死者・病死者出しルソン島山中孤立することとなったニューギニアの戦い続きマッカーサー決定的な勝利を掴み、その名声威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還ルーズベルト直訴した際に、大きな損害懸念したルーズベルト対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害これまで以上に大きなものとはなりません……よい指揮官大きな損失出しません」と豪語していたが、アメリカ軍第二次世界大戦戦いの中では最大級人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病戦闘外での負傷93,422名 という大きな損失被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部認定し多大な武器物資援助し、「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村強力な歴戦兵力支援受けており、この兵力我が戦線前進するにつれて敵の後方大打撃加え態勢にあり、同時に軍事目標近接して無数の大き地点確保して我が空挺部隊降下した場合には、ただちに保護援助与えてくれる」「私はこれら戦史にもまれな、偉大な輝かし成果生んだ素晴らし精神力を、ここに公に認めて感謝の意表する」「北ルソンゲリラ隊は優に第一線の1個師団価値があった」などとアメリカ軍と共に戦い、その功績大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラ支援していたフィリピン国民損失甚大であった。しかし、「アメリカ軍17師団日本軍23師団打ち破り日本軍人的損失比較する我が方損害少なかった」と回顧録自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった。 6月28日マッカーサールソン島での戦闘の終結宣言行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦い一つ……約103,475km2の面積800万人人口擁するルソン島全域はついに解放された」と振り返ったが、結局はその後日本軍残存部隊はルソン島山岳地帯抵抗続けアメリカ陸軍第6軍英語版)の3個師団終戦までルソン島足止めされることとなったフィリピン戦中の12月に、マッカーサー元帥昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長ジョージ・マーシャル元帥次ぎ2番目)。

※この「マニラへの帰還」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「マニラへの帰還」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。

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