マニラへの帰還
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「マニラへの帰還」の解説
「ルソン島の戦い」も参照 レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。旗艦の軽巡洋艦ボイシに座乗したマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特別攻撃隊の特攻機や特殊潜航艇であった。マッカーサーの旗艦であったナッシュビルもルソン島攻略に先立つミンドロ島の戦いで特攻機の攻撃を受け、323名の大量の死傷者を出して大破していたが、その時、マッカーサーは乗艦しておらず、ミンドロ島攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将の幕僚らが多数死傷している。特にマッカーサーに衝撃を与えたのは、戦艦ニューメキシコに特攻機が命中して、ルソン島上陸作戦を観戦するためニューメキシコに乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版)中将が戦死したことで、ラムズデンとマッカーサーは40年来の知人でありその死を悼んだ。特攻機の攻撃は激しさを増して、護衛空母オマニー・ベイ を撃沈、ほか多数の艦船を撃沈破しマッカーサーを不安に陥れたが、特攻機の攻撃が戦闘艦艇に集中しているのを見ると、側近軍医ロジャー・O・エグバーグに「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と述べている。マッカーサーの旗艦ボイシも特攻機と特殊潜航艇に再三攻撃されており、マッカーサーはその様子を興味深く見ていたが、しばらくすると戦闘中であるにも関わらず昼寝のために船室に籠ってしまった。爆発音などの喧騒の中で熟睡しているマッカーサーの脈をとったエグバーグは、脈が全く平常であったことに驚いている。やがて眼が覚めたマッカーサーは、エグバーグからの戦闘中にどうして眠れるのか?という質問に対して「私は数時間戦闘のようすを見ていた。そして現場の状況が分かったのだ。私がすべきことは何もなかったからちょっと眠ろうと思ったのだ」と答えている。 ルソン島に上陸したアメリカ軍に対して、レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、市内への重砲による砲撃を許可し、激しい市街戦の上で住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された。マニラ市民の犠牲は10万人にも上ったが、その中には絶望的になった日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラに手を焼いた日本軍のゲリラ討伐による犠牲者も含まれていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、老若男女構わず殺害した。マッカーサーは日本軍のゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を持っている……(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官であった時にフィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘され、マッカーサーは激怒している。 「マニラの戦い (1945年)」も参照 日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ここでも大量の餓死者・病死者を出し、ルソン島山中に孤立することとなった。ニューギニアの戦いに続き、マッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません……よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名 という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助し、「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており、この兵力は我が戦線が前進するにつれて敵の後方に大打撃を加える態勢にあり、同時に軍事目標に近接して無数の大きい地点を確保して我が空挺部隊が降下した場合には、ただちに保護と援助を与えてくれる」「私はこれら戦史にもまれな、偉大な輝かしい成果を生んだ素晴らしい精神力を、ここに公に認めて感謝の意を表する」「北ルソンのゲリラ隊は優に第一線の1個師団の価値があった」などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった。 6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ……約103,475km2の面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された」と振り返ったが、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、アメリカ陸軍第6軍(英語版)の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった。 フィリピン戦中の12月に、マッカーサーは元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。
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