マニラからシンガポールまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 16:40 UTC 版)
「ヒ71船団」の記事における「マニラからシンガポールまで」の解説
梶岡少将は、生き残った艦船にルソン島北西岸のリンガエン湾サンフェルナンド沖に集結するよう命じた。19日正午頃までに集まったのは、輸送船5隻と護衛艦4隻だけであった。船団は、潜水艦の追撃を警戒して水深の浅い沿岸ギリギリを航行し、21日にマニラに入港した。その他の船はバラバラにマニラへ到着した。損傷した能代丸は接岸航路をとり、択捉に護衛されてマニラに到着した。なお、護衛部隊のうち海防艦3隻(佐渡、松輪、日振)の3隻は遭難現場に残って21日まで敵潜水艦の掃討を続けたが、戦果は無かった。対潜掃蕩をうちきり22日朝にマニラ湾に入泊しようとした際、逆に米潜水艦ハーダーとハッドの奇襲を受けて全滅した。 ヒ71船団の残存船は、損傷船やフィリピン止まりの船を除き、シンガポールを目指すことになった。改編後の船団は、追加のタンカー1隻を含めタンカー4隻およびその他輸送船2隻と小さくなり、護衛艦艇5隻(藤波、平戸、倉橋、御蔵、第二号)と駆潜艇1隻が護衛を担当した。船団の指揮は、引き続き平戸座乗の梶岡少将が執った。 8月25日夕刻にマニラを出たヒ71船団は途中で、ボルネオ島のミリ行きのタンカー1隻・駆潜艇1隻を分離し、9月1日に最終目的地のシンガポールへ到着した。この航程では特に損害はなかった。
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