マニラの状況とは? わかりやすく解説

マニラの状況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:20 UTC 版)

マニラの戦い (1945年)」の記事における「マニラの状況」の解説

マニラ海軍防衛隊は、当初は約26,000人の海軍軍人軍属有していたが、兵器大幅な不足から戦力化できなかった約10,000人を、北部ルソンカガヤンなど他地域移動させていた。戦闘直前2月3日にも、兵器製造などを行っていた6,000人(ほぼ非武装)を東方山地脱出させたため、戦闘となったときの兵力は約10,000であったマニラ残った海軍将兵陸戦隊7個大隊再編成されたが、そのうち本格的な地上戦訓練受けていたのは第31特別根拠地隊陸上警備科1個中隊のみであったまた、マニラ海軍防衛隊指揮下には、野口三陸大佐指揮する野口部隊臨時歩兵2個大隊基幹)など陸軍3個大隊約4,300人が配属されたが、これも在留邦人からの現地召集大半戦力劣った陸海軍部隊合計で、高角砲43門と対空機銃250門、艦載砲流用噴進砲6門、迫撃砲歩兵砲46門を装備していた。 日本側の守備態勢は、バエ湖ラグナ湖方面陸軍1個大隊ニコラス飛行場陸戦隊1個大隊マニラ東方サンフアン東南方フォート・マッキンレー(現在のマカティフォート・ボニファシオ日本軍呼称兵営」)に各陸戦隊1個大隊配置され残り陸戦隊4個大隊陸軍2個大隊市内中心部港湾部に展開したマニラ湾1944年11月13日米空母機動部隊艦載機攻撃を受け(マニラ湾空襲)、停泊していた軽巡洋艦木曾駆逐艦初春、曙、沖波秋霜沈没もしくは大破着底態となり、その他に停泊していた輸送船数隻は壊滅したマニラ港港湾設備1月6日から破壊作業進められ1月中旬にほぼ完了したマニラ湾残存艦艇初霜朝霜、潮、竹)は1944年11月13日夜にブルネイ脱出成功しており、港内には日本側の艦船はほとんど残っていなかった。 2月当時マニラ市内には約70万人フィリピン人市民残っていた。

※この「マニラの状況」の解説は、「マニラの戦い (1945年)」の解説の一部です。
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