マニラの状況
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「マニラの戦い (1945年)」の記事における「マニラの状況」の解説
マニラ海軍防衛隊は、当初は約26,000人の海軍軍人・軍属を有していたが、兵器の大幅な不足から戦力化できなかった約10,000人を、北部ルソンのカガヤンなど他地域へ移動させていた。戦闘直前の2月3日にも、兵器製造などを行っていた6,000人(ほぼ非武装)を東方山地へ脱出させたため、戦闘となったときの兵力は約10,000人であった。マニラに残った海軍将兵は陸戦隊7個大隊に再編成されたが、そのうち本格的な地上戦訓練を受けていたのは第31特別根拠地隊の陸上警備科1個中隊のみであった。また、マニラ海軍防衛隊指揮下には、野口勝三陸軍大佐の指揮する野口部隊(臨時歩兵2個大隊基幹)など陸軍3個大隊約4,300人が配属されたが、これも在留邦人からの現地召集が大半で戦力は劣った。陸海軍部隊合計で、高角砲43門と対空機銃250門、艦載砲弾流用の噴進砲6門、迫撃砲・歩兵砲46門を装備していた。 日本側の守備態勢は、バエ湖(ラグナ湖)方面に陸軍1個大隊、ニコラス飛行場に陸戦隊1個大隊、マニラ東方のサンフアンと東南方フォート・マッキンレー(現在のマカティ市フォート・ボニファシオ。日本軍呼称「桜兵営」)に各陸戦隊1個大隊が配置され、残り陸戦隊4個大隊・陸軍2個大隊が市内中心部と港湾部に展開した。マニラ湾は1944年11月13日に米空母機動部隊艦載機の攻撃を受け(マニラ湾空襲)、停泊していた軽巡洋艦木曾と駆逐艦初春、曙、沖波、秋霜が沈没もしくは大破着底状態となり、その他に停泊していた輸送船数隻は壊滅した。マニラ港の港湾設備は1月6日から破壊作業が進められ、1月中旬にほぼ完了した。マニラ湾の残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)は1944年11月13日夜にブルネイへ脱出に成功しており、港内には日本側の艦船はほとんど残っていなかった。 2月当時、マニラ市内には約70万人のフィリピン人市民が残っていた。
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