マニラからの撤退とは? わかりやすく解説

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マニラからの撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 02:32 UTC 版)

第4航空軍 (日本軍)」の記事における「マニラからの撤退」の解説

連合軍ルソン島上陸迫っていると考えた第14方面軍山下奉文大将は、マニラ多く民間人居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとすべく、富永撤退要請した。しかし、第4航空軍司令部は、毎日特攻隊見送ってきた、悲壮な記憶が残る決戦本営クラーク飛行場見捨てて山に籠れという山下命令強く反発し司令官富永自らもマニラ墓場にすると決めており、「レイテ決戦をやるというか特攻隊出した決戦というからには、国家興亡かかっているから体当りやらせた。それなのに今度ルソン持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊犠牲にしたのかわからなくなる。富永部下顔向け出来んことになる。富永マニラを動かんぞ。マニラ死んで特攻隊お詫びするんだ」と主張してマニラ放棄拒否した第4航空軍参謀司令部要員軍属に至るまで、富永の「マニラ軍司令部最後まで死守する」という覚悟礼賛し、富永運命共にする覚悟司令部外郭防備強化奔走していた。富永のほかに、マニラ駐留の第31特別根拠地隊司令官岩淵三次海軍少将)やレイテ沖海戦などでの沈没艦生存者編成され海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊」(マ海防)も撤退拒否したマニラ市内にいる軍民なかには危機的状況にある戦局をあまり理解できない者も多くそのような者たちはマニラでの文化的生活を謳歌しており、わざわざマニラ棄てて山中に籠もる必要性理解していなかったという。マニラでの快適な生活棄てたくない者たちは「多く特攻隊マニラより出発させた。そんなマニラ放棄してルソン防御意義はない」と精神的理由重視してマニラ死守主張する富永便乗し結果的にマニラ死守という富永方針には多く共鳴者が出ることとなった山下は、富永陸軍幼年学校からの同期個人的に親しかった第14方面軍参謀長武藤章中将説得差し向けたが、撤退促す武藤に対して富永が「航空隊が山に入ってなにをするのだ? 」と不満を明かしたところ、武藤理解示して燃料航空機もない山中に航空司令部固着しても意味はない。司令部来て山下閣下相談し台湾下がって作戦の自由を得た方がよい」と第4航空軍台湾移動させて戦力再編成勧めるような提案をしたが、富永山下相談に行くことはなかった。この頃富永体調不良として病床伏せることが多くなっており、心身消耗理由大本営南方軍に対して司令官辞任2度申請していたが、決戦最中司令官交代することはできないとして拒否されている。辞任拒否され富永はさらにマニラ死守する意志固めて報道班員記者たちにも「絶対にマニラから退かない」「四航軍は竹槍持ってでもマニラ頑張る」と約束していた。辞任却下した南方軍司令官寺内寿一元帥は「老元帥貴官信頼しあり」という富永マニラ撤退頼み込むような電報何度も送り付けてきたが、富永寺内山下撤退指示に従うことはなかった。 フィリピンの戦いでは、特攻によって海軍戦果もあわせると100隻以上の連合軍艦船撃沈破しており、連合軍恐怖に陥れ、連合軍南西太平洋方面軍メルボルン海軍部は、「ジャップ自殺機による攻撃が、かなりの成果挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて太平洋海域司令官担当海域におけるそのような攻撃について、公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊その旨伝達した」と指揮下の全艦艇に対して徹底した報道管制引いたが、この検閲太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。しかし、多大な損害被りながらも、連合軍着実に進撃続けており、特攻結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになっていた。総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、いよいよ念願ルソン島上陸着手することとし1945年1月4日に自ら旗艦軽巡洋艦ボイシ」に乗り込み800の上艦隊支援艦隊を率いて1941年本間雅晴中将上陸してきたリンガエン湾目指し進撃開始したが、そのマッカーサー艦隊立ちはだかったのが特攻機であった1945年1月4日、この日出撃する一誠全員富永は自ら鉢巻手渡して隊員一人一人熱く握手交わした一誠隊は、護衛空母オマニー・ベイ」を撃沈するという大戦果を挙げたが、多く特攻隊送り出してきた富永心身疲労極限状態達していた。同日に、前線視察していた第14方面軍参謀長武藤富永訪ねた富永病気で床に伏せていたが、武藤訪問を大変喜び涙ぐみながら手を握ってきた。武藤はそんな富永様子見て精神的に肉体的に疲労困憊し限界達していると考えた武藤第14方面軍司令部バギオ転移するので、富永体調が許す限り速やかに北方移動するように勧めると、前回面談時にはマニラ撤退強硬に拒否していた富永が、心身ともに衰弱しきっていたこともあって素直に武藤勧め聞いていたという。富永武藤再会機会があるかもわからないことを認識したうえで別れたが、実際にこの後2人再会することはなかった。 連合軍特攻が有効と日本軍悟られないため、いくら損害出しても進むことを命じられていた。1月5日偵察機から、22隻の空母護衛され600隻の大船団が100kmに渡って北上中という報告聞いた富永は、連合軍リンガエン湾上陸意図しているのは明らかであると判断、第30戦闘飛行集団などの残存兵力全力挙げて特攻命じ、自らは今まで主張してきたマニラでの玉砕撤回し、「山下大将の名誉を傷つけぬ」と述べて1月7日エチアゲへの撤退決めた富永マニラ放棄決めたのは、心身的に限界達しつつあったこと、第14方面軍参謀長武藤や、、第3船舶輸送司令官稲田正純中将らから、台湾撤退して体勢立て直せという提案があったこと、また、想定以上に陣地の構築進んでいなかったことも大きな要因となった富永一緒に声高にマニラ死守主張してきた岩淵率い海軍部隊は、富永梯子外された形となり、さらに意固地となってバギオ第14方面軍司令部に「マニラ死守せんとす。所見あらば承りたし」という強硬な電文打電し引き続きマニラ立てこもりマニラの戦い壊滅した

※この「マニラからの撤退」の解説は、「第4航空軍 (日本軍)」の解説の一部です。
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