マニラからの撤退
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「第4航空軍 (日本軍)」の記事における「マニラからの撤退」の解説
連合軍のルソン島上陸が迫っていると考えた第14方面軍山下奉文大将は、マニラは多くの民間人が居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとすべく、富永に撤退を要請した。しかし、第4航空軍司令部は、毎日特攻隊を見送ってきた、悲壮な記憶が残る決戦本営のクラーク飛行場を見捨てて山に籠れという山下の命令に強く反発し、司令官の富永自らもマニラを墓場にすると決めており、「レイテで決戦をやるというから特攻隊を出した。決戦というからには、国家の興亡がかかっているから体当りをやらせた。それなのに今度はルソンで持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊を犠牲にしたのかわからなくなる。富永が部下に顔向け出来んことになる。富永はマニラを動かんぞ。マニラで死んで、特攻隊にお詫びするんだ」と主張してマニラ放棄を拒否した。第4航空軍の参謀ら司令部要員も軍属に至るまで、富永の「マニラ軍司令部を最後まで死守する」という覚悟を礼賛し、富永と運命を共にする覚悟で司令部外郭の防備強化に奔走していた。富永のほかに、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)やレイテ沖海戦などでの沈没艦の生存者で編成された海軍陸戦隊「マニラ海軍防衛隊」(マ海防)も撤退を拒否した。マニラ市内にいる軍民のなかには、危機的状況にある戦局をあまり理解できない者も多く、そのような者たちはマニラでの文化的生活を謳歌しており、わざわざマニラを棄てて山中に籠もる必要性を理解していなかったという。マニラでの快適な生活を棄てたくない者たちは「多くの特攻隊をマニラより出発させた。そんなマニラを放棄してルソン防御の意義はない」と精神的理由を重視してマニラ死守を主張する富永に便乗し、結果的にマニラ死守という富永の方針には多くの共鳴者が出ることとなった。 山下は、富永と陸軍幼年学校からの同期で個人的にも親しかった第14方面軍参謀長武藤章中将を説得に差し向けたが、撤退を促す武藤に対して富永が「航空隊が山に入ってなにをするのだ? 」と不満を明かしたところ、武藤も理解を示して「燃料も航空機もない山中に航空司令部が固着しても意味はない。司令部に来て山下閣下と相談し、台湾に下がって作戦の自由を得た方がよい」と第4航空軍を台湾に移動させて戦力の再編成を勧めるような提案をしたが、富永が山下に相談に行くことはなかった。この頃富永は体調不良として病床に伏せることが多くなっており、心身の消耗を理由に大本営や南方軍に対して司令官の辞任を2度も申請していたが、決戦の最中に司令官を交代することはできないとして拒否されている。辞任を拒否された富永はさらにマニラを死守する意志を固めて、報道班員の記者たちにも「絶対にマニラから退かない」「四航軍は竹槍を持ってでもマニラで頑張る」と約束していた。辞任を却下した南方軍司令官の寺内寿一元帥は「老元帥は貴官を信頼しあり」という富永にマニラ撤退を頼み込むような電報を何度も送り付けてきたが、富永が寺内や山下の撤退指示に従うことはなかった。 フィリピンの戦いでは、特攻によって海軍の戦果もあわせると100隻以上の連合軍艦船を撃沈破しており、連合軍を恐怖に陥れ、連合軍南西太平洋方面軍のメルボルン海軍部は、「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて、太平洋海域司令官は担当海域におけるそのような攻撃について、公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」と指揮下の全艦艇に対して徹底した報道管制を引いたが、この検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。しかし、多大な損害を被りながらも、連合軍は着実に進撃を続けており、特攻は結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになっていた。総司令官のダグラス・マッカーサー元帥は、いよいよ念願のルソン島上陸に着手することとし、1945年1月4日に自ら旗艦の軽巡洋艦「ボイシ」に乗り込み、800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率いて、1941年に本間雅晴中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特攻機であった。 1945年1月4日、この日出撃する一誠隊全員に富永は自ら鉢巻を手渡して、隊員一人一人と熱く握手を交わした。一誠隊は、護衛空母「オマニー・ベイ」を撃沈するという大戦果を挙げたが、多くの特攻隊を送り出してきた富永の心身的疲労は極限状態に達していた。同日に、前線を視察していた第14方面軍参謀長の武藤が富永を訪ねた。富永は病気で床に伏せていたが、武藤の訪問を大変喜び涙ぐみながら手を握ってきた。武藤はそんな富永の様子を見て、精神的にも肉体的にも疲労困憊して限界に達していると考えた。武藤は第14方面軍の司令部はバギオに転移するので、富永も体調が許す限り速やかに北方に移動するように勧めると、前回の面談時にはマニラ撤退を強硬に拒否していた富永が、心身ともに衰弱しきっていたこともあって素直に武藤の勧めを聞いていたという。富永と武藤は再会の機会があるかもわからないことを認識したうえで別れたが、実際にこの後2人が再会することはなかった。 連合軍は特攻が有効と日本軍に悟られないため、いくら損害を出しても進むことを命じられていた。1月5日に偵察機から、22隻の空母に護衛された600隻の大船団が100kmに渡って北上中という報告を聞いた富永は、連合軍がリンガエン湾上陸を意図しているのは明らかであると判断、第30戦闘飛行集団などの残存兵力で全力を挙げての特攻を命じ、自らは今まで主張してきたマニラでの玉砕を撤回し、「山下大将の名誉を傷つけぬ」と述べて、1月7日にエチアゲへの撤退を決めた。富永がマニラ放棄を決めたのは、心身的に限界に達しつつあったこと、第14方面軍参謀長の武藤や、、第3船舶輸送司令官稲田正純中将らから、台湾に撤退して体勢を立て直せという提案があったこと、また、想定以上に陣地の構築が進んでいなかったことも大きな要因となった。富永と一緒に声高にマニラ死守を主張してきた岩淵率いる海軍部隊は、富永に梯子を外された形となり、さらに意固地となって、バギオの第14方面軍司令部に「マニラを死守せんとす。所見あらば承りたし」という強硬な電文を打電し、引き続きマニラに立てこもり、マニラの戦いで壊滅した。
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