マニラとガレオン貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
ポルトガルがアフリカ周回ルートで東南アジアを目指したのに対して、スペインは太平洋を横断して東南アジアへ到達した。1570年にスペイン船が到着した時のマニラはフィリピン諸島の交易中心地で、マレー系のイスラーム教徒でスペインにモロ人と呼ばれた人々のマニラ王国(英語版)があり、華僑も住んでいた。スペインはマニラ王国の王であるラジャ・ソリマン(英語版)を殺害して、1571年からマニラとアカプルコを結ぶ定期航路を始める。アメリカからはポトシで採掘された銀を運び、福建から運ばれた絹や陶磁器、香辛料をマニラで買い付けた。太平洋の横断には2、3カ月かかり、帰路はさらに長くかかった。輸送には大型帆船のガレオン船を用いたためにガレオン貿易とも呼ばれ、ジャンクより積載量に優れる反面で海難による損失も大きかった。ガレオン貿易の影響で、スペイン人に生活物資を売る華僑が急増して、スペイン人からサンレイと呼ばれた。定住した華僑により中国系のメスティーソも増え、17世紀初頭には、マニラが中国船寄港地として最大の華僑人口を抱えた。華僑の居住地はタガログ人にパリアンと呼ばれた。崇禎帝による海禁復活とガレオン船の海難が重なって貿易が不振になると、マニラでは治安が悪化して、スペインによる華僑の大量殺害も起きた。
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