マニラから沖縄、台湾にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 08:58 UTC 版)
「金城夏子」の記事における「マニラから沖縄、台湾にて」の解説
1940年当時、フィリピンには19,288人の日本人がいた。フィリピンでは、マニラの市場で魚を売っていた。1939年、長女を出生。糸満出身の女性たちを組織して、ボスに収まっていた。1940年二女を出生。株を売買してお金をためた。糸満の実家に身をよせた時は、昼は魚の行商、夜はミシン掛けと多忙であったが、片言の英語をしゃべるのをきいて実家はビックリしたという。また夏子は日本がアメリカと戦争すると負けると言っていた。そのせいか、夏子に尾行がついた。その後石垣島に移住し、1944年10月台湾に移動した。八重山からは鰹節を大量に持っていった。台湾の嘉義市に移動した。1945年12月、石垣島へ移動。
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