マニラ湾口の戦い
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「マニラの戦い (1945年)」の記事における「マニラ湾口の戦い」の解説
戦前米軍の要塞があったコレヒドール島には海軍の守備隊が置かれていた。これに戦艦「武蔵」や巡洋艦「鬼怒」の生存者や震洋艇部隊などが配備されマニラ湾口防衛隊が編成された。 陣容はコレヒドール島に4500人などであった。 1月下旬よりアメリカ軍は連日にわたり爆撃を行い、震洋艇100隻以上亡失の他、28日に火薬庫の爆発を起こして死者300人の大損害を負った。 一連の空爆で投下された爆弾は3200tで、この量は南西太平洋における最大密度の爆撃であった。 2月15日にマニラ湾に侵入してきたアメリカ軍の上陸舟艇部隊に対して震洋艇部隊約36隻による攻撃が行われた。米軍の舟艇は日本側の記録では2隻、アメリカ軍の記録では3隻が撃沈されたという。これが現在確認されている震洋特攻隊の最初の出撃と戦果である。 16日にアメリカ軍の上陸部隊はコレヒドール島に上陸し、20日にはほぼ制圧された。 23日に日本軍守備隊は要塞の地下施設の一部を爆破して地上の米軍を撃滅しようとしたところ、先の誘爆事故の影響で地下トンネルが損傷していたため爆風が斬込部隊の待機していた壕まで波及したため400人が死亡した。24日には撤退命令が出されたが250名が捕虜となったのみであった。 3月2日にマッカーサーがコレヒドール島に上陸し、星条旗を掲げた。 コレヒドール島の隣の小島であるフォート・ドラム (エル・フレイル島)の要塞には「武蔵」乗組員65名からなる守備隊が籠城していた。4月14日、上陸した米軍が守備隊を要塞内部に追いたててから、通気孔にガソリン混合燃料を流し込んで爆薬によって爆破、鋼鉄製の防爆扉が数百フィート吹き飛ぶほどの大爆発を起こした。要塞は数日間燃え続け、2週間後に米軍が調査した際には生存者はいなかった。
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