マニラ湾口の戦いとは? わかりやすく解説

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マニラ湾口の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:20 UTC 版)

マニラの戦い (1945年)」の記事における「マニラ湾口の戦い」の解説

戦前米軍要塞があったコレヒドール島には海軍守備隊置かれていた。これに戦艦武蔵」や巡洋艦鬼怒」の生存者震洋部隊などが配備されマニラ湾防衛隊編成された。 陣容コレヒドール島に4500人などであった1月下旬よりアメリカ軍連日にわたり爆撃行い震洋100隻以上亡失の他、28日火薬庫の爆発起こして死者300人の大損害を負った一連の空爆投下され爆弾は3200tで、この量は南西太平洋における最大密度爆撃であった2月15日マニラ湾侵入してきたアメリカ軍の上陸舟艇部隊に対して震洋部隊36隻による攻撃が行われた。米軍舟艇日本側の記録では2隻、アメリカ軍記録では3隻が撃沈されたという。これが現在確認されている震洋特攻隊最初出撃戦果である。 16日アメリカ軍の上陸部隊コレヒドール島上陸し20日にはほぼ制圧された。 23日日本軍守備隊要塞地下施設一部爆破して地上米軍撃滅ようとしたところ、先の誘爆事故の影響地下トンネル損傷していたため爆風が斬込部隊待機していた壕まで波及したため400人が死亡した24日には撤退命令出されたが250名が捕虜となったのみであった3月2日マッカーサーコレヒドール島上陸し星条旗掲げたコレヒドール島の隣の小島であるフォート・ドラム (エル・フレイル島)要塞には「武蔵乗組員65からなる守備隊籠城していた。4月14日上陸した米軍守備隊要塞内部追いたててから、通気孔ガソリン混合燃料流し込んで爆薬によって爆破鋼鉄製の防爆扉が数百フィート吹き飛ぶほどの大爆発起こした要塞数日間燃え続け2週間後に米軍調査した際には生存者はいなかった。

※この「マニラ湾口の戦い」の解説は、「マニラの戦い (1945年)」の解説の一部です。
「マニラ湾口の戦い」を含む「マニラの戦い (1945年)」の記事については、「マニラの戦い (1945年)」の概要を参照ください。

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