第二次毛利次郎の乱
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毛利貞元が正式に赦免されたのは長享元年(1487年)12月28日である。それに先立つ同年7月、因幡の「国中乱逆」が伝えられているが、この時期から挙兵していたのかは定かではない。 毛利・矢部定利らの国人衆は新守護山名政実を擁立、再び反守護連合を構築して挙兵した。これに対し、豊時は単独で応戦して不利ではあったが、幸いにして他の国人衆は政実を支持せず、前回よりも反守護連合は拡大しなかった。戦況は豊時の優勢で推移し、9月の徳丸河原合戦では、矢部氏一族・北川氏の離反によって反守護連合は敗退した。11月、私部城にて貞元が自刃。その後、矢部館に逃れた政実、矢部定利も守護方に包囲されて自刃し、2度目の反乱は反守護連合の完敗となった。
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