第二次晋州城の戦いと戦線膠着とは? わかりやすく解説

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第二次晋州城の戦いと戦線膠着

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「第二次晋州城の戦いと戦線膠着」の解説

一方この頃秀吉朝鮮南部支配確保必須として、晋州城攻略命じる。戦闘要員42491人の陣容であった近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊存在した当初漢城戦線維持したまま日本本土からの新戦力投入する計画であった日本軍6月21日から29日掛けわずか8日戦闘開始から3日)で攻略する第二次晋州合戦)。陥落した晋州城では、指揮官の倡義使・金千鎰、その子・金象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁巨済県令金俊民などの武将戦死し軍民2万人が全滅した(朝鮮史では死者6万人とされる)。6月には明軍南下しており、朝鮮軍救援要請したが「城を空にして、戦い避けるのが良策」との返答得た日本軍晋州包囲中、明軍一時前進したが、日本軍勢力強大だと聞くと、恐れて晋州城を救援しようとはせず、早々撤退した日本軍晋州城を攻略するとさらに全羅道窺い各地の城を攻略明軍進出する戦線膠着し休戦期入った日本軍全羅南道において、7月5日には求礼7日には谷城まで進出した。しかし、南原守り堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した以後日本軍恒久的な支配と在陣のために朝鮮半島南部各地拠点となる城の築城開始し築城が始まると防衛力の弱い晋州城は無用とされ破却された。

※この「第二次晋州城の戦いと戦線膠着」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「第二次晋州城の戦いと戦線膠着」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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