第二次日韓協約とハーグ密使事件
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「韓国併合」の記事における「第二次日韓協約とハーグ密使事件」の解説
1905年4月8日、第一次桂太郎内閣は「韓国保護権確立の件」を閣議決定した。その内容は「韓国の対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国は直接に外国と条約を締結するを得ざること」などであり、つまり韓国の外交権を奪うという内容であった。また、ロシアの後ろ盾をなくした高宗も韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進しており、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。 実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、1907年(明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配を糾弾するため密使を派遣した。しかし、この会議は1889年に定められた国際紛争平和的処理条約の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。(ハーグ密使事件) 密使たちは日本の大阪毎日新聞を含む各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えたため、高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった。日本の世論は高宗を優遇してきた韓国統監の伊藤を厳しく批判し、伊藤も高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し、李完用らの閣僚も高宗の独断専行が大韓帝国の維持に有害であると退位を企てるようになる。孤立した高宗は日本に抗う術はなく、7月19日に高宗は退位して、純宗が即位した。7月24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に譲り、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。 第二次日韓協約のころまでは韓国に同情的な意見もあった日本の世論も、政治能力のない大韓帝国の存在は韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮を日本に併合することが「世界に対する帝国の任務」であると併合の推進を進める論調が主流となり、1909年3月30日、小村寿太郎外務大臣は韓国併合の「断行」を明記した意見書を倉知鉄吉外務省政務局長に起草させ、桂太郎首相に提出した。桂は小村意見書に賛意を示し、小村・桂の二人は次に当時韓国統監の地位にあった伊藤博文を訪ねて併合に関する意見を求めたところ、伊藤も小村・桂に同意した。 1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
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