第二次日韓協約とハーグ密使事件とは? わかりやすく解説

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第二次日韓協約とハーグ密使事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:46 UTC 版)

韓国併合」の記事における「第二次日韓協約とハーグ密使事件」の解説

1905年4月8日第一次桂太郎内閣は「韓国保護確立の件」を閣議決定した。その内容は「韓国対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国直接外国条約締結するを得ざること」などであり、つまり韓国外交権を奪うという内容であったまた、ロシア後ろ盾なくした高宗韓国皇室利益保全するため日韓協約締結推進しており、1905年明治38年11月第二次日韓協約大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国皇室保持されたが、韓国外交権日本接収されることとなり、事実上韓国日本保護国となった12月には、韓国軍指揮権有する行政府である統監府設置され伊藤博文初代統監就任した実権失った高宗は、三国干渉日本遼東半島主権断念したように、欧米列強干渉第二次日韓協約撤回させて、日本から外交権回復することを画策し1907年明治40年6月15日からオランダハーグ開催され第2回万国平和会議に、日本による韓国支配糾弾するため密使派遣した。しかし、この会議1889年定められ国際紛争平和的処理条約批准国による国際協調調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国外交権失われていることを理由いずれの国からも接触拒否され実質的な成果を挙げることなく失敗終わった。(ハーグ密使事件密使たちは日本大阪毎日新聞を含む各国新聞韓国主張訴え戦略切り替えたため、高宗秘密外交国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった日本世論高宗優遇してきた韓国統監伊藤厳しく批判し伊藤高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護拒否せんとするよりは、むしろ日本対し堂々と宣戦布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し李完用らの閣僚高宗独断専行大韓帝国維持に有害であると退位企てるうになる孤立した高宗日本抗う術はなく、7月19日高宗退位して、純宗即位した7月24日韓国第三次日韓協約結んで内政日本譲り8月1日には大韓帝国軍隊解散させた。 第二次日韓協約のころまでは韓国同情的な意見もあった日本世論も、政治能力のない大韓帝国存在韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮日本併合することが「世界対す帝国任務」であると併合推進進め論調主流となり、1909年3月30日小村寿太郎外務大臣韓国併合の「断行」を明記した意見書倉知鉄吉外務省政務局長起草させ、桂太郎首相に提出した小村意見書賛意示し小村二人次に当時韓国統監地位にあった伊藤博文訪ねて併合に関する意見求めたところ、伊藤小村同意した1909年明治42年7月6日桂内閣は「適当の時期韓国併合断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合体制整った

※この「第二次日韓協約とハーグ密使事件」の解説は、「韓国併合」の解説の一部です。
「第二次日韓協約とハーグ密使事件」を含む「韓国併合」の記事については、「韓国併合」の概要を参照ください。

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