丹波川勝氏
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戦国時代、丹波国桑田郡下田の国人領主であった下田 美作守 広氏の嫡男、広継(光照)のとき川勝を称したのが始まりだという。家伝によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。川勝氏(下田氏)は桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきた。先の応仁の乱では、幕府の管領を務めた細川勝元に従って、他の国人衆とともに合戦に参加した。川勝広継は12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝に仕え、北桑田郡美山町静原の島城を本城とし、八木の守護代内藤氏、京北の宇津氏、篠山の波多野氏など、丹波の戦国武将と対峙した。 広継の嫡男川勝継氏は織田信長に従い、天正元年(1573年)、信長の命を受けた細川藤孝に従って、山城国の淀城攻め(第二次淀古城の戦い)に参加した。また、天正4年(1576年)からの明智光秀の丹波攻略には与力となって協力した。継氏の嫡男の川勝秀氏は豊臣秀吉に仕え、秀吉の馬廻を務めて、天正10年(1582年)、丹波国何鹿郡内に3,535石を与えられた。また、文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、嫡男の川勝広綱とともに西軍に与して丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した。しかし、秀氏父子は徳川家康に赦されて、改易を免れることができた。慶長6年(1601年)、室町期以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出され、秀氏は旗本家を興した。 慶長12年(1607年)、広綱が父秀氏の家督を継いだ。知行は丹波内3,570石余。江戸時代には、秀氏・広綱に始まる旗本の川勝家(本家)の他に、広継の嫡男の川勝継氏の系統からは3家の旗本家が出ている(後述系譜1)。また、広継の二男の川勝知氏の系統からも川勝隆尚流など4家の旗本家が出ている(後述系譜2)。これら旗本家は、若年寄、大目付、勘定奉行、外国奉行、外国事務副総裁、開成所総奉行などを務めた幕臣を、主に幕末に輩出した。明治元年(1868年)の江戸開城に際して、川勝広運は同年正月23日より若年寄を務め開城交渉に関わった。また、外国奉行であった川勝広道は同年2月6日、外国事務総裁山口直毅のもとで外国事務副総裁となった。 幕臣以外にも、八戸藩、棚倉藩、郡上藩そして忍藩などの藩士に川勝家があった。それぞれの藩において、川勝家は家老などの要職を務めた。また、江戸時代には船井郡八木町に豪農の川勝家があった。現在でも南丹市八木町(旧・船井郡八木町)の屋賀・青戸および亀岡市旭町(旧・南桑田郡旭村)の美濃田・杉に川勝姓が集中しており、その周辺の京都府南部、大阪府北部、兵庫県東部に川勝姓の人の多数が住んでいる(京都府だけで全国の4割以上)。もちろん、幕臣川勝氏の子孫の人たちのほか、東京都にもまとまった数の川勝姓の人が住んでいる。 中日本においては、2009年から静岡県知事を務めている川勝平太がいる。
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