丹波川勝氏とは? わかりやすく解説

丹波川勝氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 02:24 UTC 版)

川勝氏」の記事における「丹波川勝氏」の解説

戦国時代丹波国桑田郡下田国人領主であった下田 美作守 広氏の嫡男、広継(光照)のとき川勝を称したのが始まりだという。家伝によれば下田美作守広氏は秦河勝広隆)より32代目嫡流とされる川勝氏下田氏)は桑田郡船井郡内を知行し室町幕府仕えてきた。先の応仁の乱では、幕府管領務めた細川勝元に従って他の国人衆とともに合戦参加した川勝広継12代将軍足義晴13代将軍足義輝仕え北桑田郡美山町静原島城本城とし、八木守護代内藤氏京北宇津氏、篠山波多野氏など、丹波戦国武将対峙した。 広継の嫡男川勝継氏織田信長従い天正元年1573年)、信長の命を受けた細川藤孝に従って山城国淀城攻め第二次淀古城の戦い)に参加したまた、天正4年1576年)からの明智光秀丹波攻略には与力となって協力した継氏嫡男川勝秀氏豊臣秀吉仕え秀吉馬廻務めて天正10年1582年)、丹波国何鹿郡内に3,535石を与えられた。また、文禄元年1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣した慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは、嫡男川勝広綱とともに西軍与して丹後田辺城攻撃田辺城の戦い)に参加した。しかし、秀氏父子徳川家康に赦されて、改易免れることができた。慶長6年1601年)、室町期以来丹波の旧族、細川三斎推挙により召し出され、秀氏は旗本家を興した慶長12年1607年)、広綱が父秀氏の家督継いだ知行丹波内3,570石余。江戸時代には、秀氏・広綱に始まる旗本の川勝家本家)の他に、広継の嫡男川勝継氏系統からは3家の旗本家が出ている(後述系譜1)。また、広継の二男の川勝知氏の系統からも川勝隆尚流など4家の旗本家が出ている(後述系譜2)。これら旗本家は、若年寄大目付勘定奉行外国奉行外国事務副総裁開成所総奉行などを務めた幕臣を、主に幕末輩出した明治元年1868年)の江戸開城に際して川勝広運同年正月23日より若年寄務め開城交渉に関わった。また、外国奉行であった川勝広道同年2月6日外国事務総裁山口直毅のもとで外国事務副総裁となった幕臣以外にも、八戸藩棚倉藩郡上藩そして忍藩などの藩士に川勝家があった。それぞれの藩において、川勝家家老など要職務めたまた、江戸時代には船井郡八木町豪農の川勝家があった。現在でも南丹市八木町(旧・船井郡八木町)の屋賀・青戸および亀岡市旭町(旧・南桑田郡旭村)の美濃田・に川勝姓が集中しており、その周辺京都府南部大阪府北部兵庫県東部に川勝姓の人の多数住んでいる(京都府だけで全国の4割以上)。もちろん、幕臣川勝氏の子孫の人たちのほか、東京都にもまとまった数の川勝姓の人が住んでいる。 中日本においては2009年から静岡県知事務めている川勝平太がいる。

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