荒木村重の台頭と摂津三守護の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:57 UTC 版)
「伊丹親興」の記事における「荒木村重の台頭と摂津三守護の終焉」の解説
元亀4年(1573年)3月、高槻城にて和田惟長が高山友照・右近親子に殺される事件が起きる。更に、同年4月、池田城の荒木村重が織田信長方に寝返った。この頃、池田家では三好派の池田知正と足利義昭派の池田勝正の兄弟が存在し、荒木村重は両方を見限ったと考えられる。その後、高山父子は荒木村重に従属するようになり、旧和田氏と旧池田氏の勢力が伊丹氏に向けられる事となった。 更に、同年7月には阿波の篠原長房が三好長治に誅殺され(上桜城の戦い)、畿内の三好派は阿波・讃岐からの支援が得られなくなり、同月、槇島城に籠もった足利義昭が降り(槇島城の戦い)、翌8月には淀城の岩成友通も討ち取られ(第二次淀古城の戦い)、同11月、三好義継が若江城の戦いで自害、翌12月に松永久秀が降伏した。そして、翌天正2年(1574年)11月15日、伊丹城は荒木村重に攻められ落城し親興は自害した。一説では、落城後に浪人となり、後に関ヶ原の合戦で戦死したともいわれる。伊丹城は有岡城と改名され、荒木村重の本拠地となった。
※この「荒木村重の台頭と摂津三守護の終焉」の解説は、「伊丹親興」の解説の一部です。
「荒木村重の台頭と摂津三守護の終焉」を含む「伊丹親興」の記事については、「伊丹親興」の概要を参照ください。
- 荒木村重の台頭と摂津三守護の終焉のページへのリンク