第二次琉球新報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 04:33 UTC 版)
戦後、在日米軍はその準機関紙として「ウルマ新報」(のちに「うるま新報」に改題)を新たに創刊。社長には島清、続いて瀬長亀次郎と沖縄人民党(日本共産党沖縄県委員会の前身)と重なる人脈が続いた。1952年、サンフランシスコ講和条約締結を祝って改題、「琉球新報」の題字を復活させた。第一次琉球新報との直接的な連続性はない。 1969年には労働組合のストライキ(春闘)の影響で約2週間新聞休刊したこともあった。1979年には九州・沖縄地区初のカラー印刷を開始。更に1981年には1面など主要ページを全国主要地方紙として初めて連日カラー化に踏み切った。 県内ではライバル紙「沖縄タイムス」とシェアを二分する。2005年3月期の売上構成は新聞購読料が38%、広告料収入37%、その他25%となっている。 マスコットキャラクターはりゅうちゃん。 2009年3月より夕刊を廃止し、朝刊のみの発行となる(それ以前からも1993年10月から第2土曜日が休刊となっていた。これは週休2日制が定着したことを受けてのものである)。社告ではその理由を「広告需要の長期低迷と、用紙代やインキ代など資材高騰による新聞製作コスト上昇」と説明し、夕刊時間帯のニュース報道はインターネットを活用して速報態勢を強化するとしている。なお夕刊廃止は大手紙・地方紙の別を問わず全国的な流れとなっており、沖縄タイムスも同時期に夕刊廃止を行った。
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