1804年から現在までの選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/10 15:10 UTC 版)
「アメリカ合衆国憲法修正第12条」の記事における「1804年から現在までの選挙」の解説
1804年の大統領選挙以降全ての選挙は修正第12条に基づいて行われてきた。その時以降下院が大統領を選出したのは1度だけある。1824年大統領選挙で、アンドリュー・ジャクソンは選挙人票99票を獲得し、ジョン・クィンシー・アダムズ(ジョン・アダムズの息子)は84票、ウィリアム・クロウフォードは41票、ヘンリー・クレイは37票を得た。候補者全てが民主共和党員であり(候補者の間には重要な政治的違いはあった)、誰もが選出に必要な過半数の131票に届かなかった。副大統領の方は競合が少なく、ジョン・カルフーンが182票を得て即座に選ばれた。 下院は上位3人のみを対象にできたので、クレイは大統領になれなかった。クロウフォードは卒中を患った後の健康が優れず、下院で選ばれる可能性が消えた。アンドリュー・ジャクソンは一般投票でも選挙人投票でも最高得票を得ていたので、下院が自分を選んでくれるものと期待していた。しかし、下院での1回目の投票でアダムズが13州、ジャクソンが7州、クロウフォードが3州という結果になった。クレイがアダムズの大統領を後押しした。クレイは下院議長だったので、クレイの後押しは余剰効果があった。アダムズがクレイをアメリカ合衆国国務長官に指名したとき、多くの、特にジャクソンとその支持者はこの2人を「裏取引」をやったと非難した。他の者は、大統領候補者がその立場を強化するために、その副大統領後者を指名するように、これは政治における通常の連携であると理解した。さらにある歴史家は、クレイが理論的にジャクソンよりもアダムズに近く、クレイ支持者がアダムズの支持に回ったのは自然であるとも言った。 1824年の選挙後、民主共和党は民主党とその後にホイッグ党となるものに分かれた。1836年の大統領選挙では、ホイッグ党が選挙人の票を分散し民主党の候補者マーティン・ヴァン・ビューレンが過半数を取れないようにするために、異なる地域に異なる候補者を指名し、それによってホイッグ党が支配する下院での議決に持ち込もうとした。しかし、この戦略は失敗し、ヴァン・ビューレンが一般選挙でも選挙人選挙でも過半数を獲得したので、それ以降合衆国の主要政党が国政選挙で地域候補を出す戦略を採用することは無かった。 1836年の選挙では、これと同時に副大統領候補が誰も選挙人選挙で過半数を獲得できない選挙になった。民主党の副大統領候補リチャード・メンター・ジョンソンは以前の奴隷との関係ゆえにバージニア州の民主党選挙人の票を獲得できなかったことが原因だった。その結果ジョンソンは147票となり過半数に1票足りなかった。次に来るのはフランシス・グレンジャーの77票、ジョン・タイラー47票、ウィリアム・スミス23票だった。しかし、選出は上院に委ねられ、ジョンソンが33票を獲得し、グレンジャーの17票を破って当選した。 修正第12条では、大統領と副大統領が同じ州から選ばれることを排除していないが、住人条項に対してやや難しくなっている。現代の選挙では副大統領候補が異なるタイプの有権者に訴えるためにしばしば選ばれている。この問題は2000年の選挙でジョージ・W・ブッシュ(副大統領候補はディック・チェイニー)とアル・ゴア(副大統領候補はジョー・リーバーマン)との間で争われた時に起こった。チェイニーとブッシュはどちらもテキサス州住民であり、テキサス州の選挙人が双方に投票することは修正第12条に違背するものだと主張された。ブッシュはテキサス州知事だったのでその住所は問題が無かった。チェイニーとその妻はハリバートンの社長の役割を果たすために5年前にダラスに引っ越した。チェイニーはワイオミングで育ち、合衆国議会はワイオミング州の代表だった。選挙の数ヶ月前、チェイニーは有権者登録と自動車免許をワイオミング州に移し、ダラスの自宅を売りに出した。3人のテキサス州選挙人がダラスの連邦裁判所にこの選挙の異議申し立てを行い、続いて第5巡回控訴裁判所に控訴したが、そこで却下された。
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