1805年オーストリア戦役
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「アウステルリッツの戦い」の記事における「1805年オーストリア戦役」の解説
詳細は「第三次対仏大同盟」を参照 1805年8月、ナポレオン(前年12月にフランス皇帝に即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえた。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるバイエルンに侵攻した。これに対して、ナポレオンは元老院においてバイエルン救援を宣言する。 約20万のフランス軍が隠密かつ迅速な行軍で、ライン川を渡河した。マック中将はオーストリア軍の主力をシュワーベン(現在の南ドイツ)のウルム要塞に集結させていた。ナポレオンは敵を欺くため一旦北へ軍を向けさせ、その後、大陸軍各軍団は南へ旋回してダニューブ川への強行軍を敢行し、フランス軍をオーストリア軍の背後に回り込ませた。この強行軍の成功により、ウルムに篭城していたマックのオーストリア軍23,000は10月20日に降伏を余儀なくされた。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに宛てた手紙で、ここまでの戦役でオーストリア兵6万を捕虜にしたと述べている。 この大勝利は、翌日に発生したトラファルガーの海戦での大敗によって水を差されたが、陸上での勝利は続き、11月にはフランス軍はウィーンを占領してマスケット銃10万丁、大砲500門を鹵獲し、更にドナウ川に架かる橋を無傷で手に入れた。 一方、ロシア軍の到着は遅れ、オーストリア軍救援に失敗した。このためロシア軍は北東へ退却して増援を待ち、その上でオーストリア軍の残存兵力と合流することにした 。ロシア皇帝アレクサンドル1世はミハイル・クトゥーゾフ大将をロシア=オーストリア連合軍の総司令官に任命した。1805年9月9日にクトゥーゾフは情報収集のため戦場へと赴いた。彼はオーストリア皇帝や廷臣たちと作戦計画や補給関連の協議を持った。クトゥーゾフの圧力により、オーストリアは軍需品や武器を適時かつ十分に提供することに同意させられた。また、彼はオーストリア軍の防衛計画の欠陥を指摘して「非常に教条主義的である」と評した。更に彼は、最近までナポレオンに統治されていた土地の併合にも住民の信頼を失う危険があるとして反対していた。しかしながら、クトゥーゾフの提案の多くは拒否されてしまう。 フランス軍は追撃したが、直ぐに自らが困難な状況にあることに気づいた。プロイセンの意図は不明確ではあるが、恐らくは敵対的であり、ロシア軍とオーストリア軍は既に合流しており、そして、イタリアを守っていたカール大公・ヨハン大公のオーストリア軍9万が未だ健在であり皇帝を救援すべく北上していた。これに加えてフランス軍の後方連絡線は極端に長くなっており、これを維持するために多数の守備兵を必要とした。ナポレオンはウルムでの勝利を確固たるものとする唯一の手段は連合軍に決戦を強いて撃破することであると確信していた。 一方のロシア軍では、総司令官クトゥーゾフは「自殺的な」オーストリア軍の防御計画に固執することなく、退却を決意していた。彼はピョートル・バグラチオン中将に兵600を率いてウィーンのフランス軍を牽制するよう命じ、フランス軍のミュラ元帥と停戦交渉をして撤退の時間稼ぎをした。ナポレオンはすぐにミュラの失敗に気づき、彼に迅速な追撃を命じたが、この時には既に連合軍はオルミュッツにまで退却していた。 クトゥーゾフの計画では連合軍はカルパティア地方にまで退却することになっており、「ガリツィアで、私はフランス軍を葬る」と語っている。 だが、ナポレオンはこの事態を座視はしなかった。彼は連合軍を誘い出すために心理的な罠を仕掛けた。会戦前の数日間、ナポレオンは自軍が窮状にあり、交渉による和平を望んでいるとの印象を連合軍に与えた。スールト元帥、ランヌ元帥そしてミュラ元帥の部隊を含む約53,000人のフランス軍がアウステルリッツとオルミュッツを結ぶ街道に布陣しており、敵軍の注意を引いていた。連合軍の兵力は89,000人であり、数で圧倒しており、劣勢なフランス軍を攻撃する誘惑に駆られていた。だが、連合軍は気づいていなかったが、ベルナドット元帥、モルティエ元帥そしてダヴー元帥の部隊が来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンやイフラヴァの駐留部隊を強行軍によって呼び寄せることも可能だった。これによってフランス軍の兵力は75,000になり、数的劣勢を補うことができる。 策略はこれに留まらなかった。11月25日、サヴァリ (en) 将軍をオルミュッツの連合軍本営へ派遣して連合軍の状況を秘密裏に調べさせるとともに、戦闘を避けたい旨のナポレオンの伝言を伝えさせた。想定通りにこの伝言はナポレオンの弱気と見なされた。27日にフランツ1世が休戦を申し出るとナポレオンはこの受け入れに非常に乗り気な態度を示した。同日、ナポレオンはスールトにアウステルリッツおよびプラッツェン高地からの撤退と、退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。これによって連合軍はこの高地を占拠することになる。翌28日、ナポレオンはアレクサンドル1世との会見を申し出て、ロシア皇帝の側近であるドルゴロウキー伯爵の訪問を受け入れた。伯爵との会見は次の段階の策略だった。ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮や焦燥の態度を見せ、ドルゴルーキーはこの様子をフランス軍の弱さの証拠としてロシア皇帝に報告した。 策略は成功した。ロシア皇帝の側近や、オーストリア軍参謀長フランツ・フォン・ワイロッテル (en) 少将を含む連合軍指揮官の多くが即時攻撃を支持し、アレクサンドル1世の意思を変えさせた。クトゥーゾフの意見は却下され、ここに連合軍はナポレオンの仕掛けた罠に嵌る事となった。
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