1805年オーストリア戦役とは? わかりやすく解説

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1805年オーストリア戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 00:26 UTC 版)

アウステルリッツの戦い」の記事における「1805年オーストリア戦役」の解説

詳細は「第三次対仏大同盟」を参照 1805年8月ナポレオン前年12月フランス皇帝即位)は新たに現れオーストリアおよびロシアの脅威対処すべく、軍の目標イギリス海峡からライン川振りかえた。9月10日オーストリア軍フランス同盟国であるバイエルン侵攻した。これに対してナポレオン元老院においてバイエルン救援宣言する。 約20フランス軍隠密かつ迅速な行軍で、ライン川渡河した。マック中将オーストリア軍主力シュワーベン現在の南ドイツ)のウルム要塞集結させていた。ナポレオンは敵を欺くため一旦北へ軍を向けさせ、その後大陸軍各軍団は南へ旋回してダニューブ川への強行軍敢行し、フランス軍オーストリア軍背後回り込ませた。この強行軍成功により、ウルム篭城していたマックオーストリア軍23,00010月20日降伏余儀なくされた。ナポレオン皇后ジョゼフィーヌ宛てた手紙で、ここまで戦役オーストリア兵6捕虜にしたと述べている。 この大勝利は、翌日発生したトラファルガーの海戦での大敗によって差されたが、陸上での勝利続き11月にはフランス軍ウィーン占領してマスケット銃10万丁、大砲500門を鹵獲し、更にドナウ川架かる無傷手に入れた一方ロシア軍到着は遅れ、オーストリア軍救援失敗したこのためロシア軍北東退却して増援待ちその上でオーストリア軍残存兵力合流することにした 。ロシア皇帝アレクサンドル1世ミハイル・クトゥーゾフ大将ロシアオーストリア連合軍総司令官任命した1805年9月9日クトゥーゾフ情報収集のため戦場へ赴いた。彼はオーストリア皇帝廷臣たちと作戦計画補給関連協議持ったクトゥーゾフ圧力により、オーストリア軍需品武器適時かつ十分に提供することに同意させられた。また、彼はオーストリア軍防衛計画欠陥指摘して「非常に教条主義的である」と評した。更に彼は、最近までナポレオン統治されていた土地併合にも住民信頼を失う危険があるとして反対していた。しかしながらクトゥーゾフ提案多く拒否されてしまう。 フランス軍追撃したが、直ぐに自らが困難な状況にあることに気づいた。プロイセン意図不明確ではあるが、恐らくは敵対的であり、ロシア軍オーストリア軍は既に合流しており、そして、イタリア守っていたカール大公ヨハン大公オーストリア軍9未だ健在であり皇帝救援すべく北上していた。これに加えてフランス軍後方連絡線極端に長くなっており、これを維持するために多数守備兵を必要とした。ナポレオンウルムでの勝利を確固たるものとする唯一の手段連合軍決戦強いて撃破することであると確信していた。 一方ロシア軍では、総司令官クトゥーゾフは「自殺的なオーストリア軍防御計画固執することなく退却決意していた。彼はピョートル・バグラチオン中将に兵600率いてウィーンフランス軍牽制するよう命じフランス軍ミュラ元帥停戦交渉をして撤退時間稼ぎをした。ナポレオンはすぐにミュラ失敗気づき彼に迅速な追撃命じたが、この時には既に連合軍オルミュッツにまで退却していた。 クトゥーゾフ計画では連合軍カルパティア地方にまで退却することになっており、「ガリツィアで、私はフランス軍葬る」と語っている。 だが、ナポレオンはこの事態座視はしなかった。彼は連合軍誘い出すために心理的な罠を仕掛けた会戦前の数日間ナポレオン自軍窮状にあり、交渉による和平望んでいるとの印象連合軍与えたスールト元帥ランヌ元帥そしてミュラ元帥部隊を含む約53,000人のフランス軍アウステルリッツオルミュッツを結ぶ街道布陣しており、敵軍注意を引いていた。連合軍兵力89,000人であり、数で圧倒しており、劣勢フランス軍攻撃する誘惑駆られていた。だが、連合軍気づいていなかったが、ベルナドット元帥モルティエ元帥そしてダヴー元帥部隊来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンイフラヴァ駐留部隊強行軍によって呼び寄せることも可能だった。これによってフランス軍兵力75,000になり、数的劣勢を補うことができる。 策略はこれに留まらなかった。11月25日サヴァリ (en) 将軍オルミュッツ連合軍本営派遣して連合軍の状況秘密裏調べさせるとともに戦闘避けたい旨のナポレオン伝言伝えさせた。想定通りこの伝言はナポレオン弱気と見なされた27日フランツ1世休戦申し出るナポレオンはこの受け入れに非常に乗り気な態度示した同日ナポレオンスールトアウステルリッツおよびプラッツェン高地からの撤退と、退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。これによって連合軍はこの高地占拠することになる。翌28日ナポレオンアレクサンドル1世との会見申し出てロシア皇帝側近であるドルゴロウキー伯爵訪問受け入れた伯爵との会見次の段階策略だった。ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮焦燥態度見せ、ドルゴルーキーはこの様子をフランス軍弱さ証拠としてロシア皇帝報告した策略成功したロシア皇帝側近や、オーストリア軍参謀長フランツ・フォン・ワイロッテル (en) 少将を含む連合軍指揮官多く即時攻撃支持しアレクサンドル1世意思変えさせた。クトゥーゾフ意見却下され、ここに連合軍ナポレオン仕掛けた罠に嵌る事となった。

※この「1805年オーストリア戦役」の解説は、「アウステルリッツの戦い」の解説の一部です。
「1805年オーストリア戦役」を含む「アウステルリッツの戦い」の記事については、「アウステルリッツの戦い」の概要を参照ください。

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