1805年3月の戦略状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:11 UTC 版)
「トラファルガー戦役」の記事における「1805年3月の戦略状況」の解説
イギリス海軍の様々な艦と司令官たちとによって、フランス海軍は大規模な封鎖を受けており、一方で主力侵攻軍である9万3000人の陸軍4部隊は、ブローニュで待機していた。オランダには、9隻の戦列艦から成るフランスとオランダの戦隊が駐留していたが、こちらはジョージ・エリフィンストーン提督の、11隻の戦列艦から成るダウンズ戦隊が見張りをしていた。両艦隊はいずれも、作戦には参加していなかった。海峡艦隊の主力部隊は15隻の戦列艦で構成されていて、ウィリアム・コーンウォリス提督と副官であるチャールズ・コットン(英語版)中将の指揮の下、ロシュフォール封鎖中のトマス・グレーブズ少将の分遣した5隻の戦列艦の戦隊、また、フェロール封鎖中のロバート・カルダー中将が分遣した8隻から成る戦隊と共に、ウェサン島からアイルランド沿岸までを巡回していた。イギリス艦隊は、21隻の戦列艦を擁したガントーム提督下のブレスト艦隊、3隻または4隻から成るロシュフォール艦隊、そしてグルドン提督下の4隻と、フェロールのグランダリャナ提督下の8隻の戦列艦から成るフランスの大西洋艦隊に対して、かなり厳しい封鎖を続けていた。カディスには6隻のスペイン艦と、1隻のフランス艦がいて、この7隻もジョン・オード(英語版)少将とその5隻の戦列艦の警戒のもとに置かれていた。他にカルタヘナにサルセード提督指揮下の6隻のスペイン艦がいた。トゥーロンを基地とする11隻のフランスの戦列艦はヴィルヌーヴの指揮下にあり、このフランス艦を封鎖していたのが、ネルソン率いる戦列艦12隻の地中海艦隊だった。イギリス海軍のそれぞれの提督は多くのフリゲート艦、スループ船そしてブリッグ船を思い通りにできた。また、それから遠く離れて、コクランに追跡されていたミシェシは、西インド諸島周辺を航海したが、互いに砲火を交えることはなかった。ヴィルヌーヴがトゥーロンで封鎖されているのが明らかになったことで、ナポレオンから召還命令を受け、3月28日にミシェシは帰国の途に就いた。1805年3月は、ナポレオンにとって大きな前進の時であった、オーストリアから、フランスを攻撃しないと言う言質を取り付けたのである。ナポレオンはイギリス侵攻計画の再開を決め、新しい計画を練った。
※この「1805年3月の戦略状況」の解説は、「トラファルガー戦役」の解説の一部です。
「1805年3月の戦略状況」を含む「トラファルガー戦役」の記事については、「トラファルガー戦役」の概要を参照ください。
- 1805年3月の戦略状況のページへのリンク