1806年以後、バーデンの官庁都市として
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「ネッカービショフスハイム」の記事における「1806年以後、バーデンの官庁都市として」の解説
1806年の帝国代表者会議主要決議によって帝国騎士の身分が消滅し、ビショフスハイムはバーデン大公領となり、この都市は「ネッカービショフスハイム」に改名された。大公領にはビショフスハイムという名前の都市が他に2つあったためである。タウバービショフスハイムとラインビショフスハイム(現在はライナウの市区)がそれである。ネッカービショフスハイムは、ネッカー川からほぼ15kmも離れているにもかかわらず、その名を市名に取り込んだ形になっている。 バーデンでのネッカービショフスハイムは、まず1806年にオーバーアムト・ヴァイプシュタットに属すこととなり、1813年にベツィルクスアムト(地方行政局)の所在地となった。この都市は人気の移住先として発展し、1860年までに人口約2000人となったが、同じ時期に約260人が、主にアメリカに転出していった。19世紀前半には、ベツィルクスアムトの庁舎(1825年)、営林署官舎、ノイエス・シュロス(新城、1829年)、マルクト広場の学校が建設された。 1846年と1847年の2度の凶作の後、ネッカービショフスハイムを皮切りにバーデン一揆が起こり、これが1848年革命の始まりとなった。1848年3月3日とその翌日に、ちょうどこの頃シナゴーグを建設したバーデンビショフスハイムの裕福なユダヤ人に対して、激昂した農民達の暴行が繰り返された。 1859年11月2日から3日にかけての夜に起こったバーデンビショフスハイムの大火で都市の2/3(46軒の住居と42棟の付属建築)が焼失した。この火事で、300人以上の市民がホームレスとなったが、再建は急速に進み、その後おそらく1年間で建設されたと考えられる。 1846年にベツィルクスアムト・ネッカービショフスハイムが廃止され、ネッカービショフスハイムは拡大したベツィルクスアムト・ジンスハイムに編入され、1939年からジンスハイム郡に昇格した。ネッカービショフスハイムの集中的な工業化は、1862年に開通したバーデン・オーデンヴァルト鉄道と関連づけられる。1879年に印刷所が開業し、鍛冶屋のツック家は鉄道車輌製造の会社を興した。後には、石膏生産、タバコ工場、金工場が創業した。1870年から1880年の耕地整理は、農業生産のより良い条件を生み出した。すなわち、約29,000面に細分化された耕地がなくなり、約9,000面に整理統合された。 1900年から1902年に支線のネッカービショフスハイム - ヒュッフェンハルト線が開通し、病院が建設された。1906年、ネッカービショフスハイム救護隊が創設された。この救護隊は、現在ドイツ赤十字の支部となっている。この都市は旺盛な経済発展を遂げ、多く中規模の企業が創業した。そして、モータリゼーションが伝統的な職種を急速に淘汰していった。
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