1803年から1930年
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「ハイデルベルク」の記事における「1803年から1930年」の解説
1803年の帝国代表者会議主要決議の枠組みに従い、プファルツ選帝侯領は廃止され、ハイデルベルクを含むライン右岸の領土は大公に昇格したバーデンの領土となった。バーデン大公カール・フリードリヒは、ハイデルベルク大学を国立の金融に関する教育機関に定め、大学を優れた教育施設に再建した。彼と創設者である選帝侯ループレヒト1世の功績を記念して、ハイデルベルク大学は「ループレヒト=カール大学」と改称された。ラウテルン(現在のカイザースラウテルン)から移住して、国家経済学部で学ぶ学生カール・ドライスが二輪車を発明し、後のモータライズされた個人用交通機関開発への扉を開いた。ドライスはこの大学が輩出した最も重要な人材となった。 19世紀初め、このネッカー川沿いの都市はその風景の魅力と絵のように美しい城趾によってドイツ・ロマン派の重要な街となった。フリードリヒ・ヘルダーリン、アヒム・フォン・アルニム、クレメンス・ブレンターノ、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフといった詩人の作品は「ハイデルベルク・ロマン主義」として知られている。アルニムとブレンターノは、1806年から1808年に「子供の魔法の角笛」と題するドイツ民衆歌謡集を刊行した。絵画の分野でも、カール・フィリップ・フォール、カール・ロットマン、エルンスト・フリースらがハイデルベルクで芸術サークルを形成した。 三月革命前の時代、ハイデルベルク大学では国家主義、自由主義、民主主義の思想が大勢を占めた。三月革命勃発後は、1848年3月5日に南西ドイツの自由主義、民主主義の政治家達がハイデルベルクに集まり集会を開いた。この集会が準備議会、ひいてはフランクフルト国民議会創設への決定的なインパクトとなった。国民議会失敗後、バーデンの5月蜂起はプロイセン軍の援助を得て鎮圧された。この時、ハイデルベルクでも自由主義義勇兵と軍の間で戦闘が行われた。 工業化の波はこの都市に大きな痕跡を遺すことなく過ぎ去っていった。これに反し、観光産業は19世紀になって発展した。特に1840年にこの都市が鉄道網に組み込まれた後、観光業はハイデルベルクの重要な経済因子となった。19世紀以降、大学と学生組合に属す学生たちはハイデルベルクに影響を及ぼした。ヨーゼフ・フィクトール・フォン・シェッフェルの詩「アルト・ハイデルベルク、麗しの街」(後に付曲され、ポピュラーな学生歌となった)と1901年に初演された芝居「アルト・ハイデルベルク」は、ハイデルベルクを19世紀の学生生活の象徴に仕立て上げたのである。 泡沫会社乱立時代に、ハイデルベルクは急速に拡大した。何度も合併がなされて市域が拡大するとともに、1871年に20,000人だった人口は1933年には85,000人と4倍近くにまで増加していた。同時に、市電や登山電車が敷設され、ネッカー川の運河化が進むなど、社会資本の整備がなされた。1930年にアメリカ市民の篤志家から寄付があり、新大学の講義棟の定礎式が行われた。
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