オランダ侵攻とオーストリアの反撃
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「ネールウィンデンの戦い (1793年)」の記事における「オランダ侵攻とオーストリアの反撃」の解説
デュムーリエは中央方面軍でオーストリア軍をライン川西岸から追い出す機会もあったが、彼は自分の計画、すなわちネーデルラント連邦共和国への侵攻を実行することにした。彼はオランダに宣戦しつつグレートブリテン王国を中立にとどまらせようとしたが、本国はそう思わず1793年2月1日にグレートブリテンに宣戦布告、デュムーリエにオランダ侵攻を命じた。デュムーリエは歩兵1万5千と騎兵1千(後に増援を受ける)で侵攻を開始、ミランダにマーストリヒトを包囲させた後、ヴァランスとダルヴィル軍の援護を受けて北進した。この時点で北方軍は18,322人、ベルギー方面軍は30,197人、アルデンヌ方面軍は23,479人、ダルヴィルの軍勢は12,051人、ホラント方面軍は23,244人、ベルギーの駐留軍は15,000人だった。合計すると、低地諸国におけるフランス軍は122,293人だった。そのため、フランス軍は向かうとこ敵なしと考えて自信過剰になった。一方、本国の国民公会では中道のジロンド派と急進的なジャコバン派が熾烈な政争を繰り広げていた。そのため、フランス軍の補給システムは整備されずに崩壊した。 デュムーリエは1793年2月16日にオランダの国境線を越えた。ブレダ要塞は2月21日から24日までのごく短い包囲で陥落、歩兵2,500と竜騎兵連隊を含むオランダ駐留軍3,000人は大砲250門を残して退去することを許された。また21日にはミランダの軍勢1万がマーストリヒトが包囲された。駐留軍はカール・ヴィルヘルム・ゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット少将(ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの子)率いるオーストリアとオランダの守備軍8千だった。真冬の包囲工事はフランスの志願兵には過酷であり、多くが脱走して故郷へ戻った。大砲150門を有するヘールトラウデンベルフ(英語版)要塞は3月1日から4日まで包囲されたのち降伏、オランダ駐留軍の歩兵2個大隊と騎兵2個大隊は退去した。ブレダとヘールトラウデンベルフの降伏にはジブラルタル包囲戦での浮き砲台を設計したジャン・クロード・ル・ミショー・ダックソン(英語版)のブラフも影響していた。クランデルト(英語版)にある小さな砦はベルネロン率いる4千人により3月4日に占領されたが、クランデルトの少数な駐留軍は頑強に抵抗し、60人が戦死して残り73人になってようやく降伏した。 ホランス・ディープ川の端に着いたデュムーリエは作戦計画を立てた。まず川を渡って、続いてロッテルダム、デルフト、デン・ハーグ、ライデンと進撃してアムステルダムを奪取するという作戦であり、ミランダもマーストリヒトを落とした後、ナイメーヘンとユトレヒトを通ってデュムーリエと合流する予定であった。しかし、オランダとの戦闘に忙殺されたことでフランス軍はオーストリアに休息の時間を与えすぎ、フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトはライン川西岸にオーストリア軍の大軍を配置した。カール・マック・フォン・ライベリッヒ(英語版)という有能な士官の補佐も受けた。コーブルクが3月1日のアルデンホーフェンの戦いでルネ・ジョゼフ・ド・ラヌー(フランス語版)の援護軍を蹴散らしたことで、フランス軍は3月3日にマーストリヒトの包囲を解いた。コーブルクの追撃は遅く、フランス軍は9日にルーヴェンで再集結してしまった。デュムーリエはオランダ侵攻をあきらめたくなかったが、本国の命令でベルギー戦役に集中せざるを得なかった。ルイ=シャルル・ド・フレール(英語版)をホラント方面軍の指揮に残すと、デュムーリエは11日にルーヴェンに到着した。 デュムーリエは撤退するにも自軍の士気が低すぎると考えてコーブルクの軍勢に向けて進軍、会戦を求めた。しかし、拙速に進軍したためダルヴィルの軍勢やホラント方面軍の増援を呼び寄せることに失敗した。フランソワ・ジョゼフ・ドルーオ・ド・ラマーシュ(英語版)はティーネン(英語版)から追い出されていたが、3月16日にはフランス軍が激しい戦闘の後それを再占領した。ティーネンを攻めるフランス軍は1万人でカール・フォン・エスターライヒ=テシェン大公率いる守備軍は兵士6千、大砲6門、臼砲2門だった。フランス軍が500人の損害を出した一方、守備軍は死傷者と行方不明者が合計800人に上った。コーブルクは軍を小ヘーテ川(オランダ語版)まで退かせた。数で敵を上回っていると考えたデュムーリエは成功を確信していた。また1世紀前に同地で戦われた戦闘でもフランス軍が勝っていた。
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