歴史学者からの評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 10:41 UTC 版)
「ABCD包囲網」の記事における「歴史学者からの評価」の解説
イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートは、「アメリカ政府の資産凍結措置と同時にイギリス政府も行動をとり、ロンドンのオランダ亡命政府も誘導されて追随した」。「このような措置は、1931年にさかのぼる議論においても、日本を戦争に追い込むことは必定だった」と述べており、一連の経済封鎖を背景にしたアメリカの要求について「いかなる国にも、とりわけ日本のような面子を重んじる国にとっては、このような要求を容れることは不可能であった」。「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは注目に値する」と評している。 同じくイギリスのJ・F・C・フラーは「オランダはアメリカとイギリスの措置に加わった」。「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の開始であった」と述べている。大西洋会談ではルーズベルトがチャーチルに対し『私は決して宣戦布告をやる訳にはいかないでしょうが、戦争を開始する事はできるでしょう』と述べ、チャーチルは後日『われわれの共同禁輸政策は確実に、日本を平和か戦争かの瀬戸際に追いやりつつあります』という書簡を送ったとしている。 アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは、「1941年の後半にイギリスとオランダが協調して、資産凍結と禁輸措置を実行した」としている。 同じくアメリカの政治学者、ジョセフ・S・ナイ・ジュニアは、「日本を抑止しようとするアメリカの努力は破綻をもたらした。平和という選択肢は、戦争に敗れるよりも非道い結果をもたらすと日本の指導者達は考えていた」と述べている。 家永三郎は「日本は、中国侵略を継続するために、これに反対する米英蘭との戦争をすることになった」と述べている。 秦郁彦によれば、ABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国、蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油・ゴム・スズ・屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國國策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかったと秦は述べている。(検証・真珠湾の謎と真実) 須藤眞志は「ABCD包囲網のようなものが、意図的なものとして存在したかどうかは疑わしい」と述べている。また密約合意文書とされる「ABC-1」「ADB-1」について大統領が承認していないので、米政府の意思決定や活動を縛る拘束性がなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。 ジョージ・モーゲンスターンは「ABC-1」「ADB-1」両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。 井口治夫は、対日経済制裁によって「日本海陸軍をジリ貧論へ追い込んでいった過失責任は明らかに米国側にあった」としている。 岩間敏は「陸海軍の省部(陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部)の幕僚たちは、この英米の強硬な反応に茫然自失となった。彼らは、日本が南部仏印に進駐しても米国は、それを許すと思い込んでいたのである。日本の政策決定集団は経済制裁を冷徹に実施してきていた米国のカードが読めていなかったのであった」としている。
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